修学院離宮と水田

   

修学院離宮の上空からの写真 棚田が続いていることがわかる。江戸時代は下の住宅地もすべて田んぼだったのだろう。山を背中に背負って、谷間の水を集め、溜池を作る。そして下の田んぼを潤す。こうした水土事業こそ、天皇一族の本業だったと思われる。

修学院離宮の水田 江戸時代の面影が残る棚田なのだろう。土の高い畔が印象的である。地形に沿って作られるという事が、美しい田んぼになるという事だ。

 

 農家に耕作委託しているようだ。機械田植えが終わったところか。

修学院離宮にはとても興味がある。後水尾上皇が考えた理想郷の表現なのだと思うからである。つまり、天皇家が考える所の日本のあるべき姿を庭として表現したのではないかと思う。江戸時代天皇家は政治や権力というものから敬して遠ざけられていた。江戸幕府の巧みな政治手法だ。後水尾天皇は徳川家康の孫娘と結婚している。東福門院である。この東福門院の服を納めていたのが、光琳の父親の呉服商である。後水尾天皇は天皇を退位し、長く上皇の位置にとどまり、桂離宮や修学院離宮を造営する。これらの建築物や庭は天皇の考える理想世界の集約された表現と考えられる。庭を精神世界の形として表す文化というものがあった。竜安寺石庭にある、禅の精神表現を庭の形に表そうとすることと同じである。一つの芸術表現としての庭。その壮大な天皇文化の集大成のようなものが、修学院離宮と考えてよいのだろうと思う。

修学院離宮は下に広がる水田の溜池が中心になっているのだ。全てが循環する世界を表そうとしたときに、水田というものを含んだ庭に至った。食糧生産が思想の根幹をなしている。すべてを捨て去った石庭を禅の世界観としたことと対極に位置する、何もかもを綜合する精神世界。すべてを含み込んだ現実世界の総合表現。その中核をなすものが、水田である。天皇家が稲作文化の中心に存在するという事を庭として示している。ここに、瑞穂の国の文化を示すことによって、権力に対して、文の力を尊重をさせようとしている。天皇家は稲作技術を司る存在なのだろう。だから、日本が瑞穂の国という事になる。稲作りというものが、日本人というものを生み出したという事だ。その中央に存在していたのが、天皇家である。天皇家は稲作の先端技術を普及した家だ。弥生時代日本に稲作文化が広がってゆく。稲作を行うという事は水土の先端技術を駆使するという事だ。天皇の宗教的神秘と先端技術の結合。水田が広がるとともに、人口増加が可能になり、水を介して日本人の社会というものが形成されてゆく。水を分かち合い、協働する暮らしの誕生。

そうした水土技術の総帥としての天皇が、その精神を形に表そうとしたのが、修学院離宮ではないか。山北で開墾生活を始めた時に、自給自足の最小型を作ろうとした。屋根の水を集めて行う田んぼ。水にまつわる自給生活である。生きる元気の満ち溢れた愉快なことであった。シャベル一本で出来る自給生活。アジア学院を訊ねた時に実に共感した。まさに中型の循環型世界を作ろうとしていた。天皇家があらわそうとしたものも、アジア学院が作ろうとしたものも、私の目指した自給農の姿も、一つの循環してゆく世界観の表現なのではないかと思う。天皇は明治期帝国主義の軍神の様な姿をさせられ、大きくゆがめられたのだ。今もって不幸なことにその誤解の中に天皇が存在している。日本国家にとっても、天皇家にとっても間違ったことだ。稲作り百姓の頭領である天皇という実像を見たくないのが、愚かしい日本の天皇主義者達なのだ。天皇が平和主義者であるのは、稲作という平和でなければ不可能な世界の人だからだ。競争ではなく、協働することで初めて成り立つ世界。アジア3000年の循環農業の姿が修学院離宮にある。10月に、参観に行く。

 

 

 

 

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