AI知育玩具、遊んで考える
AI知育玩具というものが、東京おもちゃショーに出ているとある。これからどんどん出てくることだろう。はたしてAIは人間を成長させるのだろうか。おもちゃ会社が知育玩具を売りにする根拠は、AIが子供をダメにするだろうと考える人が多いい事を逆手に取っているようなものだ。ファミコンゲームばかりやっていて、勉強をしない。これが多くの人の気がかりなことだろう。ゲームというものは麻薬的な性格がある。私も何度かはまり込んだ経験があるので、この点はある程度は理解できる。子供がゲームばかりしてという状態は想像できる。藤井壮太7段が登場して、将棋ばかりしてと親の心配は減ったのだろうか。将棋は知育ゲームなのだろうか。AIゲームもアジア大会には競技種目になるらしい。オリンピック種目になる可能性も高いとのことだ。なぜAI玩具が知育を掲げるかと言えば、子供がのめり込んでいる内に知育の向上になるとすれば、良さそうというか、売れそうだからだろう。実際のところはそういう知育玩具はまだできていない。
発想は悪くない。数学ゲームにのめり込んでいたら、数学ⅡBで満点をとれたというなゲームがあれば、大いに助かるだろう。そういうゲームが工夫できるかどうかはちょっと想像もできないが、あれば悪くない。好きなことだけをして生きて行きたいというのが、私の信条なのでそういう事があればいいと思う。私は生物関連は子供のころからそれなりに興味があった。鶏の研究者になって、鶏を飼育し、改良する人間になりたいと、6歳ごろから考えていた。ところが、鶏を研究する道には進めなかった。研究者になるには、受験勉強とか、第2外国語とか、その道で生きてゆくためには、好きでないこともやらなければならないようだった。それが耐えられない性格である。それでも鶏を飼いたいので何とか好きな日本鶏を飼育出来る道を選んだのが養鶏業だ。しかし、確かに学問的な部分で不足が大きく、趣味の範囲を超えることはできなかった。結局のところ学問的ではなく、趣味的なアプローチで極めるつもりで鶏を飼った。
実際にやるという事と、頭の中でやるという事とは似てはいるが、やはり違う。面倒くさいし、億劫ではあるが、実際に身体を動かして行動しながら頭を働かせるという事は、観念とはずいぶん違うものになる。鶏の餌のやり方の良い方法は、自分なりにえさを与えながら、試行錯誤して見つけるものだ。この餌やりというとても面倒くさいことを毎日繰り返し地道にやれるのは好きだからの人とお金の為の人がいる。お金の為の人は手抜きの養鶏業に進む場合が多いい。平飼いとか、自家配合飼料とか、無意味なことを得意げに書いて、まるでサプリメントの効能書きのような養鶏になる。金儲けはろくなことはない。趣味の横好きの方が、本質に近づく道である。だからAI知育玩具には期待できる。数ⅡBが満点取れるようになってなんだという事なのだ。どうせ受験勉強などというものはその程度のものだ。通過儀礼のようなもので、その内容に意味がある訳ではない。古臭い企業が学歴を重視するのは通過儀礼を重んずるからだ。
そして期待できるAI玩具で何を失うかである。嫌な受験勉強をやって何を失っているかである。大切なものをずいぶんと失う。何かを得るという事は何かを失うという事だから、それはそれでいいのだろう。生きる方角が見えれば必要なものは分かる。生きるものが分かるためにはどうすればいいかであろう。AI玩具で遊んでいれば生きる方角は大体想像できる。身体を動かさない人間である。身体で学ばないことでは生きる方角は見えないと私には思える。疑似的知識がAI玩具で増えれば増えるほど、身体で感じ育つ感性は衰退することだろう。羽生竜王がどれほど素晴らしい人間であるとしても、AI玩具をしていて、あのような人間が出来るわけではないこと知らなければならないだろう。