自給農業では消石灰は使わない。
消石灰は使わないことにしている。有機農業でも消石灰は使用してよい資材とされている。使う人は使うべきだし、使わないのは自給農業のこだわりのようなものだ。石灰は自然界にある無機物である。石灰を使うか使わないかに、その人の農業が現れているような気がする。無機物を畑に持ち込むような農法は自給農業ではないと考えるからだ。石灰は土壌の中和に使われている。日本の土壌は一般的に酸性である。火山国だから酸性という事もあるらしい。また、雨が酸性傾向だから、裸地であれば土壌は酸性に傾いてゆく。しかし、長年放置されていた畑であっても、草が生い茂り重なり合い腐植化しているような場合、必ずしも酸性化しているとは限らない。耕作放棄地を中心にあちこち違う土地で耕作してきたので、土壌は条件でずいぶん違うということを経験してきた。化学肥料と除草剤を多投していた畑は、かなりの傾きのある土壌になっている。特に腐植が不足していて、まるで砂漠で農業をしているような気になる場所もある。土壌のおおよその傾向は生えている草で分かる。肥料分があると地なのか、酸性に傾いている土地なのか。そうした耕作地の歪みを耕作の過程を通して徐々に作りやすいものに変えてゆくことが自給農業なのではないか。
土壌分析も良いが、まずは自分の眼で見て判断する能力を高めなければ、その日その日の判断力が高まらない。職人が指先の感覚で状態を計るように、自分の身体でその日その日の畑の状態が分かるようになりたい。土壌分析をやるなら、徹底して本格的にやらなければ、間違いのもとになることさえある。酸性の土壌であることが分かった場合でも、石灰を使わないのは外部から持ち込むものは、最小限にしたいからだ。消石灰には殺菌効果がある。散布すれば、土壌にいる微生物は全滅する。一気に全滅させたいときには使えばよいのだろう。松本の石綿さんはそういう形で使うといわれていた。この発想は少し違うかもしれないとおもった。自然を受け入れ、出来るだけ物を持ち込まないのが自然農法ではないか。耕作を通して土壌を調和させてゆく気の長いやり方が好きだ。土壌を酸性から中和してゆくためには堆肥を入れてゆく。堆肥を根気よく入れる。少々のことでは中和されないが、時間をかければ段々によくなる。自給農業はそれでいいと思っている。中和されるまで、酸性土壌ではできないホウレンソウを食べないで小松菜にしておけばいい。そうしてホウレンソウが出来るまで堆肥を入れる努力をする。消石灰で中和が簡単に終わってしまえば、腐植が増えることはない。
植物の出来が悪ければ、今度は有機農業で使える新しい資材を投入するという発想になる。これでは自分らしい自給農業に至ることはできない。買ってきたものを使わない。これが自給農業のルールである。先日、キャベツは化学肥料をやらなければ結球しないと、主張する人がいて驚いた。発想が違うのだ。キャベツが結球出来るような土づくりを努力することが大切なのことだ。白菜が結球するような土壌を作り出すことが面白いではないか。一度、化学肥料を使えば、土壌の微生物は狂い始める。狂った土壌ではよほどの総合力がなければ、無農薬での栽培は難しくなる。化学肥料と農薬は連動している。化学肥料を使わないで、遠回りする耕作をする。耕作を繰り返しながら腐植を増やし続ける。その先にキャベツが結集し、白菜が結球する土壌が待っている。消石灰を使わないで、良い土壌を目指すという事を自分の方針にすることで、その土地にあった、より自分らしい栽培方法を見つけることができる。
書き過ぎという事かもしれないが、自給農業を行う事は、食糧を作るという事だけでなく、自分という人間を鍛えるようなものだと思っている。自分生き方が反映しているとすれば、安易に何かを持ち込んで解決するという事ではおもしろくない。その象徴的なものが消石灰ではないかと思っている。土壌に腐植を増やし、年々酸性が中和されるように土壌を豊かにすることが出来るという事は。自分という人間に手をかけて育てているようなものではないかと思っている。こういう考え方は個人個人の問題である。良い方向という事ではない。その長い道筋をどのように選ぶかが、その人なのだと思う。化学肥料を与えることで結球させるという道は、確かに早い。しかし、この方法では私には意味がないことになる。自然界というものを理解する機会を、自ら捨てているようなものだと思う。多分松本の石綿さんがあえて消石灰を使うと言われたのだ。消石灰を使ってはならないというような、ことすらこだわりを捨てるべきだという、一段階先のことのような気がする。自然というものの持つ、広大無辺の世界を学ぶという事も含めて、自給農業をしているのではなかろうか。