マチスの失敗の成功
絵を描くこということは、人によって全く様々なのとだと思う。共通の価値基準というものがどこにも見つけられないところが絵の良さのようなものだ。多くの人が評価する作品もあるが、マチスの絵をただヘタな絵だと主張するとしても、それは一つの見方である。その人の見方をすればよいことである。絵に間違いなど何もない。自らにとっての自身の絵と、見ているマチスの絵とは、絵ではあるがその意味はまるで違う。私自身の絵は描くという行為を含んでいて、初めて絵というものになっている。行為を含むという事は、自分の行為の達成感を含んで絵を考えることになる。私がマチスの絵がすごいと思うのは、絵を描くという行為まで共有してもらおうという意図を感じるからだ。だから、マチスはつぎの時代の先駆者なのだと思う。マチスはどうすれば、技術というものがないまま絵が描けるかを模索している。絵画を訓練をした上手な職人の世界から失敗などない世界のものにしようとした。
マチスはジャズという切り絵の連作をしている。私はこれをまねて随分切り絵を作ってみた。ほぼマチスと同じものが作れる。たぶん中学生ぐらいになれば、誰にでもほぼ同じものが作れるはずだ。何枚か真似てみれば、それを少し変化させて、自分の色や、自分の形で、作品らしきものが作れるようになる。そこに出来上がった切り紙の絵が、自分の世界観なのかどうかは分からないが、まるで作品ぽいものが現れてしまうのことになる。誰にでもできるにもかかわらず、マチスであるところがすごい。昔、学校の授業で生徒にやってもらっていた。マチスに似たものを作ることで、作品を制作する面白さを体験してもらえたと思う。これは私の工夫の授業のつもりだったのだが、テート美術館では同じようなことを今やっているようだ。中学生でも可能な技術を通して、マチスはマチスの世界観に至っている。マチスのすごさであり、つぎの時代の絵画なのではないかと私は思うようになった。
マチスの最後の作品は、カタツムリという、適当な正方形がカタツムリの様に渦巻き状に張られている作品である。このロンドンのテートギャラリーにある作品を前にして、子供たちのワークショップが開かれている。この3メートル四方もある巨大作品を、子供たちでも作れるのだ。マチスのこの絵は、どの色が最初に貼られたかわかるように作られている。最後の色がどのように置かれたかも分かるように作られている。マチスはもう自分では描けなくなっていて、助手に紙にガッシュで指定の色を塗らせて重ね合わせて制作したらしい。私はそう決めつけてしまったが多分間違いないことだ。そのマチスの意図が理解できた時に、マチスの作品が読み解けたと腑に落ちたのだ。当時、コンセチュプチュアルアートという事で、作品を読み解くことが当たり前になっていた。マチスは一枚目の紙を張る喜び、2枚目、3枚目と色を重ねてゆく変化する喜び。最後の紙を張り作品の感性というという喜び。作品を制作するというすべての過程を見る者と共有しようとしたのではないか。
少なくともテートギャラリーのワークショップでは、子供たちがマチスに倣って巨大作品を制作している。その写真を見たことがある。マチスの作品というものは、技術というものを超えている。それでいて何処までもマチスなのだ。しかしここでのマチスは、素人でも、子供でも可能な作品制作の世界なのだ。マチスの到達した芸術世界を、誰もが至れる芸術の世界にしてしまった。これが私絵画の始まりなのではないか。その様に私は考えた。誰もが持っている手法と技量で、制作するという生きる豊かさにつながるような意味を、誰にとっても可能なものにした。芸術作品を作るという事の意味が、社会性から、個人の内部的な問題に変わったのではないか。その為に技術的な様相を取り払い、芸術作品を職人的な世界から、すべての人間の物へと解放した。