自分について書く理由

   

仙厓の書

このブログを顧みると自分のことばかり書いている。平和について書いたとしても自分の平和という事が常にある。絵においても、自分のことばかりである。それは私が、禅宗のお寺で生まれて、禅宗の僧侶として生きてきたからではないかと思っている。禅は自分というものを見つめてゆく修行である。その点実に利己的な宗教である。悟りを開くというようなことが言われる。悟りを開いたうえで、世の中の為になるとか、ひと様の為になるとかいう事がない。悟りを開き社会から離脱するようなところがある。悟りを開いた高僧が、名古屋の方で大工さんの手伝いをしていた。という話を理想の姿の一つとしてお寺で聞いた。悟りを開いて、マザーテレサのような社会活動をするというようなことではない。その人にとって良いという事だけである。自分主義というか、自分ばっかりである。人の為が出てこない宗教というのだから、珍しいと言えばいえる。取って付けたように、人の為を解く禅宗の坊さんも多いいが、少なくとも、道元禅師はそんなことはみじんも考えていない。

水彩人でも自分の絵をどこまで追求できるかという事だと思っている。水彩人に社会的な目的などないとおもぅている。水彩画の普及などという建前はどうでもいい。自分の絵に至りたいというだけだ。その為の水彩人という仲間だ。絵画が社会にとって意味あるものであるのかどうかも、今や疑問だと思っている。もちろん装飾としての絵画は意味がある。総理大臣のインタビューの後ろにひどい絵があるとがっかりする。中国では巨大な絵が要人の背景になることが多いが、あれもは文化の程度で事大主義にしか見えない。その内安倍氏の背景には、アニメ映画の一場面が飾られることになりそうだが。その意味では商業主義的には絵画は存在するのだろう。しかし、一人の人間が絵を描くという本質はそういう事とは全く違う。そこを間違うと、絵を描くという心の行為まで、競争主義の亡霊にさいなまれることになる。絵画に意味があるのかどうかは、目的ではない。あしがら農の会であっても、地場・旬・自給ではないかと主張してきたのは、まず自分の自給というものを大切にするという思想だ。農業者は自給ではないのだから、農の会の活動とは別だと思っている。

自分という存在に行き着きたい。その自分存在を十二分に生きたい。生と死の間の刻々をどこまで感じて、深めて生きて行けるかという事になる。まったくの独善である。人の為と言ことがすこしもない。しかし、全くの独善であるが故に、未来を照らすものになるという事もある。禅画と呼ばれるものがある。仙厓とか、白隠が思い出される。禅宗に3つの流れがあり、臨済宗・黄檗宗と曹洞宗である。私は曹洞宗である。曹洞宗は道元禅師が中国で学び、日本に伝えたものである。曹洞宗では、絵や書を描くという事はない。むしろそういうものを嫌う。だから物として残されて、価値あるようなものはほとんどない。お寺に行くと素晴らしい仏像や、壁画を拝観するわけだが、本山の永平寺にはそのような特別なものはない。ただただ修業の場である。そこでは本来死者を弔う事もなかった。お参りに来て有難いとお寺とは程遠いい。参禅道場である。冒頭に転載したのは、臨済宗の僧侶仙厓の書である。面白い書である。これを見ていると、仙厓の考えていた禅というのか、人間の悟りの方角というものが見える。これが表現というものではないか。表現というものを自分の考えるとわからなくなるが、すごいものを見ると必ず真理が示されている。

大相撲の稽古場にお参りに行く人は居ないが、朝稽古を見に行った人はその空気に触れて、何か格別に深いものを味わう。力士は強くなるという自分のことだけにひたすらである。この自分のことをやり抜くという姿自体が仏であるとする。その特別な形になった存在が横綱である。横綱はまわしを付け、自分自身が神域であると示している。だから、ずる賢い横綱など誰も見たくないのだ。強くなるという修業が心の修業にもなるという、名人伝の世界である。これはなかなか論理では理解しにくい世界である。弓の名人が弓を見て、これは何に使う道具ですかと聞いたという世界。最後にはその自らがひたすら歩んだ世界すら超越してしまうという、精神世界。これが弓だからまだわかりやすい。禅であれば、ひたす座禅に歩んで、何処に行くと言えば、大工さんの手伝いになっている。これは極めて難解な世界だ。

凡人の私にはここが分からなかった。子供のころから、具体的な事物抜きに修行が出来なかった。高校生の頃は陸上の長距離選手を目指して、頑張っていた。走るという事は努力をした結果タイムが良くなる。努力を怠るとタイムが伸びない。こういう眼に見えたことしか凡人の私にはわからなかった。高校生の私に座禅での成長の意味は難しかった。それが絵を描くという、タイムという結果のない世界に入り、今も絵を描き続けている。絵を描くという事は結論はない。9秒台というような新記録はない。ゴッホの絵画も全く見向きもされなかったように、何が良いかなどという事は誰にもわからない。本人とは別の問題という事になる。このあたりが、凡人の修業にはちょうど良い加減のようだ。人間は結局のところ何か自分なりの器にあったものに取り付くものである。こうして、自分のことばかりに生きている。恥ずかしいという事は分かっているが、これも一つの修業であろう。仙厓の書があるので、仙厓のことをうかがい知ることができる。私の絵はどうであろうか。方角はあっちの方だ。

 - 暮らし