選挙至上主義の公明党
公明党は平和の党のはずであった。何故、憲法を変え、安保法制を推進し、共謀罪に賛同し、カジノ法案に賛成するのか。そして都民ファーストと選挙協力をしなければならないのか。都議会選挙では公明党が小池党について、自民党が惨敗した。公明票という固定票がくっ付いた方が勝利する図式がまた再現された。公明党の存在が日本の政治に日増しに影響を増してきている。労働組合票も、農協票も、企業票も、支持母体としては当てにならなくなってきた中、創価学会票だけが意味を持ち始めている。アベ政権は深い反省をして、公明党にへばりつくであろう。あらゆる地方議会でも同様のゆがみが生じている。公明党がどちらにつくかで選挙の結果が変わる。沖縄の公明党は自由投票を決めたので、翁長知事が誕生した。石垣では公明党が現職の中山市長につくかどうかが微妙なところのようだ。中山市長は自衛隊誘致をした張本人でありながら、不明瞭な態度でのらりくらりごまかしとおし、創価学会を引き寄せたようだ。創価学会の現世利益とはこういう事なのだろう。選挙に勝つという事で権力を得るという事なのだろう。
政治がこうも悪くなったのは、小選挙区制の為だ。選挙至上主義の公明党は強そうな方にくっつく選択しかない。政治に政策討論が無くなった。政策での選挙でなくなれば、公明党の存在はより大きくなる。自民党の実際は知らないが、外から見える範囲では自分の意見を表明してはいけないような状態だ。これは公明党の支持を得るための方策、という理由があるのかもしれない。広くどうでも取れるようなことだけを表明する。具体的なことを言えば、必ず賛成と反対がある。それを避けたいという心理が働いている。憲法改定についてですら、公明党の賛成を得るように近寄っている。国会においても、まともな憲法議論がない。どうせ時間がたてば、政府案が通るのだから、十分議論をしたという形だけをつくる国会。しかし、カジノ法案で分かるようにまともな議論などどこにもないまま通過してしまう。共謀罪など本質の議論など全く隠されている。
公明党は選挙に有利な方につくだけである。そして創価学会という確実な組織を背景に選挙を行う。公明党の存在が政治の中にあること自体が、世の中全体に、政治に関して興味を失わせ、活性化を妨げている。どうせ選挙などしても無駄だ。政策議論などしたところで無駄だという意識を作り出している。自民党も公明党頼みをやっている内に、都議会と同じ痛い目を見るはずだ。アベ政権の真綿首のソフト独裁政治と創価学会の関係はどうなっているのだろう。ソフト独裁で一番困るのは公明党のはずなのだが。創価学会の内部を自民党が完全に把握すれば、自分の意見など何も言えなくなるはずだ。今もそうなのだろうが、さらにへつらうだけの党になる。創価学会員は目を覚ます必要がある。このままでは公明党は政府に支配されることになる。公明党は自分たちはどのような政府を望むのかを明確にすべきだ。本当に平和憲法をなし崩しにしてもいいと考えているのかである。
公明党が石垣島に自衛隊が来ることを、石垣の平和のために良しとするのであれば、それは仕方がない。しかし、公明党議員は以前から自衛隊の誘致に疑問を持っていた。創価学会会員の多くは石垣に自衛隊基地ができることに疑問を持っている。そのため中山市長は公明党に支持をしてもらいたいがために、自衛隊基地に関する答弁が、何を言っているのかまるで分らないことになる。市長選挙前に自衛隊基地誘致を明言するべきだ。誘致は決めたが、具体的な計画が出ないと賛成か反対か判断できないなど主張する。判断するためには誘致を決めるしかない。などと訳のわからない言い方をしている。言葉を弄して議論を避けようとしている。要するに創価学会会員に対する配慮であろう。こうした中山市長を生んでいるのが公明党の日和見主義である。ここでも忖度政治が行われている。自衛隊基地は、石垣の未来にとって必要か、不必要かを明確に正面から議論すべきである。そして選挙に於いて明確に意思表明して市民の判断を仰ぐ必要がある。