描くこと、書くことの大切さ
絵を描くのも、文章を書くのも、生きてゆく上で不可欠なことだと考えている。自己存在を自覚して生きるためである。立派なお坊さんであれば、座禅修行かもしれない。私は俗物である。俗物は日々の暮らしの中で自覚するしかない。修行をするというようなことは、わざとらしくていやらしく感じてしまう。俗物の普通の人間として自覚に至りたい。しかもその過程が具体的なものでなければわからない。65歳を機に三線を練習しているのだが、練習すると前より少しは良くなる。歌えなかった唄が歌えるようになる。日々はほとんど変わらないが、1か月ぐらいするとわかる。唄を聞くだけでは歌えるようにはならない。歌えなくとも歌っている内に、わずかきっかけが出てくる。最初はでたらめであっても口に出さない限り、何の進歩もない。仲良田節を最初聞いた時には、生涯歌うことは不可能に思えたが、今は聞こえ方が分かりやすくなった。それなりに歌えるのかもしれないと思っている。
絵を描くのは歌を唄うより難しい。目的を自分が決めるものだからである。お稽古ごとのように、師範をもらう為の順序なら、努力が分かりやすい。金沢の友人には茶道をやる人が多いいのだが、これは日本の稽古ごとの典型だと思う。形から入り、精神に至る道。座禅よりは分かりやすい。絵が違うのは行き着くところがないという芸術なのだ。絵もお稽古ごとのように、やっている人もままある。公募展で入選する描き方。コンクールで賞を取る描き方。売れるような絵の描き方。結論があれば、それなりのお稽古法はない訳ではないのだろう。絵を描くという事は未知に向うという事である。一般的に良いとか、世間的に評価されるとかいう事は、全く関係のないことなのだ。これは、私絵画を探求する私の絵画観かもしれない。しかし、芸術というものに一般論など無意味ではないか。絵を描くことは、私個人の問題にしなければならない。
文章をこうして書くことも同じである。自覚である。頭の中を流れてゆく思いを言葉化する。言葉化することを通して、考えることを深める。ただ頭の中でああだこうだと考えているだけでは、思考は深まらない。一切考えないという座禅は本当に難しい。思考を深めるためには文章化してみることだ。そして読み返してみる。そしてまた考える。考えるという事が具体化できる。日常考えていることなど知れている。人に読んでもらう形で公表するなど、馬鹿げていることは知っている。しかし、普通の人間が普通であるままに文章を公表しながら、自らを自覚することこそ意味が有ると考えている。人間は誰もが普通に人間なのだ。特別な人間などいやしない。普通の人間が固有の自分というものを、探り当てる道に意味が有る。自分を知ることは、別段他人の評価とは関係がない。自分が生きて死んでゆくという事は、他人のことではなく、自分一人のことだ。自分のやれる探求の道でやってみるほかない。
絵は水彩人で発表する。自覚の為の過程である。良い仲間がいることはありがたいことだ。水彩人を見てくれる人がいることは、さらにありがたいことだ。見てくれる人が居なければ、展覧会は成立しない。あの人が見てくれたという事だけで、励みになるものだ。今年も5,500人という多数の人が見てくれた。それがあるから、続けて行ける。文章はブログで公表する。読んでくれる人がいるという事はありがたいことだ。読んでくれる人が居なければ、継続することなど出来なかっただろう。読んでくれる人がいる間は続けられるような気がしている。昔からの知り合いの人に会った時に、ブログを読んでいると言ってくれることがある。恥ずかしいことではあるが、そもそも人間は恥ずかしいものだ。その恥ずかしい自分を自覚しようというのだから、そこは我慢もある。しかし、見守ってくれる人も居るという事がある。描きつくし、書き尽くしてやろうという気持ちになる。