希望の方角

   

4年後の東京オリンピックが子供や若い人の希望を生み出す祭典にならないだろうか。オリンピックが社会の希望に繋がったことがある。前回の東京オリンピックは日本の空気を変えた。敗戦の反省、復興という何とか元に戻りたいという願い。負から正への社会の気分転換を果たした。気持ちが前向きになる機会になった実感がある。戦争に突入し敗戦した愚か者でも、気持ちを入れ替えて何と頑張れるという希望である。中学生の私は、オリンピックの熱気の冷めやらぬ、国立競技場で幅跳びの選手として体育祭に出場した。世田谷中学校の代表になって、幅跳びで出場をした。残念ながら、全く上がってしまい普段の記録が出せなかった。オリンピック競技はテレビで見たくらいで、競技を見に行くことはかなわなかった。しかし、あの国立競技場にあった、晴れ晴れとした気分は、日本中の青空を集めたというほどの高揚があった。その後高校生になって陸協競技部に入ったことでもその気分が想像できる。

中学生の希望に胸膨らませる、炎を燃えあがらせた。あの時代は、何処までも伸びて行けるような空気が社会に満ちていた。そういう時代に自分が育ったことは幸せであった。そのおかげで、絵を描いて生きて行こうと決めることが出来た。フランスにゆき絵を描いて行きたくなった。ナンシーというドイツよりの街に行ったのだが、日本からの留学生が10人ほどいた。美術学校に入ると、絵を描きに来ていた、宮本和彦さんという人が居た。今はたぶん何人もいないだろうと思う。面白い気分に満ちた、有難い時代だった。そういう時代の空気の中で自分の希望を育てることが出来た。帰ってからも、東京で絵描きになろうと、思う存分やらしてもらった。結局は絵描きにはなれなかったが、絵は描いて居る。良い挑戦はさせてもらった。その後高度成長期が終わり、日本の希望が失われるのをみた。その流れがあったから、山北の山の中での開墾生活に入ることが出来のだとおもう。

時代の空気というものは、人の一生に大きな影響を与えるようだ。今の時代は残念ながら悪い空気である。前の東京オリンピックの頃は、まだアマチアリズムという事が言われ、プロ選手は排除されていた。お金の為にスポーツをやることは卑しいことだとされていた。そういう理想主義に支えられたオリンピックだから、希望を夢見ることが出来たのだと思う。今度のオリンピックは、お金のオリンピックが表面に出ている。競技場の建設から利権が渦巻いている。プロスポーツ化しないから強くなれないなどという事が普通に言われるようになった。それは資本主義社会では普通のことなのだろう。しかし、そうしてスポーツの希望はお金の希望になってしまったのではないか。お金が欲しいからスポーツをする。スポーツ選手の心は、博打うちの心と近いらしい。こういうところからは、時代の希望は生まれない。お金を欲しいから頑張るというのでは、共感が薄い。社会の共感にまではならないようだ。立派な選手たちがあんなに頑張っているのに、ここが残念な時代ではないか。

ではどうすれば、若い人、子供たちが、希望を持てるような時代を作れのだろうか。自然に学ぶしかない、と考えている。自然という経済を超えたものにじかに自分をぶつけるような生き方をしてみる。お金ではない人生があることを学ぶ。生の人間の挑戦が生き生きとした社会を取り戻すことではないだろうか。もう一度日本である。かつての日本がそうであったように、里山暮らしをやってみること。他人との競争から自己新を目指すことに変わること。オリンピックを契機に勝つためのスポーツではなく、自分を磨くの為のスポーツを思い起こすことではないだろうか。日本の武道は強いだけではだめだとされてきた。負けて潔く。勝負を超えた自己研鑽の道としてスポーツをとらえていた。オリンピックで優勝する選手を作ることだけを細く高く目指すより、すそ野を広げてゆくことに転換しなければならない。

 - Peace Cafe