創作ノート

   

誰しも何かを作り出そうと思うえば、それなりの創作ノートがあるはずだ。絵を描く人なら、大抵はスケッチブックである。突然、これは何なのだろうという場に立つことがある。なんどもその気で見ていると、アッこれだという事に出会う。先日は稲刈りをしていて、稲を手で刈り取ってゆく地面にびっくりした。何かすざましいのだ。ものが育ち収穫を迎えたその生き物があった場所。恐ろしいような思いでしばらく目が離せなかった。気になった情景を記憶する。記憶したことを反芻するために、こうして、書き止めておく。絵を描くのだからスケッチをするという事もあるのだろうが、それはあえてしない。言葉で書き止めておく。それが熟成されれば絵を描いて居るときに表れる。スケッチすることで絵としての解釈になるような気がしている。見た印象は、そのままでは記憶から消えることが普通だ。だから、記憶に残すために、創作ノートとして書き止めておく。

畑や田んぼにいるときには、大体絵を描く目で見ている。つまり絵を描きに出た時のような目で、畑や田んぼを見ている。作業をしているときは、何も考えない。何も考えない眼になる。考えない眼は観念とは切り離された、新しい景色を見れることがある。つまり夕焼けがとか、桜が咲いたとか、富士山が見えるというような、事物にまつわる美を前提にした景色ではなく、美とは思ってもいない、ただそこに在るものが特別な情景を作り出していることに気づかされる。案外の、美の発見。田んぼのぐちゃぐちゃの地面というものは美しいという観念には程遠いいものだが、何か在りそうに見えた。何かが宿っているように見えた。その姿は大いに参考になる。実際の映像が参考になるというのでなく、何かが宿るという姿の切り口である。モネが藁ツトを描いたとしてもそれは光の姿である。美しい光ではあるが、畑の神様には縁のない光だ。

稲を育てた土地の力のようなものが、視覚化される。ただの地面が、ある瞬間命の断面を見せる。ある田んぼが良くできて、有る田んぼは出来ない。土地の力の違いはある。一見わからないその土地の力の差が、肉眼に見えるときがある訳だ。土地の力を描こうちう訳ではない。田んぼに神様がいるとも考えてもいない。しかし、そいうすべてを含み込んで描けなければ、里地里山の絵とは言えないと考えている。良い田んぼと、ダメな田んぼが作物のない時期にもある。そいう事まで絵にできないかと思っている。言い方を変えれば、一本の柿の木を描いて、その柿の木の周りにある暮らしを描くことになる。別段、文学的に家に帰るカラスを添えて描くというのでない。ただただ柿の木を見て、自分の生きている真実まで見えてくるという事だ。そういう絵を見たことがあるし、水彩画はそいう事が出来る手法なのだと思う。

私の場合、こうやって見たことを考えてみるのが創作ノートである。絵を描き始めたならば、全く何も考えない。むしろ考えないようにしている。描く前にはあれこれ、考えすぎるほど考えている。その考えていることを整理してゆく為に、こうして言葉で書いておく。私絵画の絵は、当然日常の中にある。自分の中に有るものなのだから、いわゆる絵らしい絵とは程遠いいものだ。良い絵の描き方からも遠いい。どうやって自分の見ているものに入り込むか。どうやっていわゆる絵から自分を遠ざけるか。どうやって自分が特別の眼になれるかである。見ることを鍛えなければならない。絵を言葉化するという事も、自分の眼を意識化させるためである。漫然と目に映るものを、そうでないものにするための手段だ。今の自分がまだ自分の絵に至っていないといういう事である。どうやって努力してゆくかの道を自問している。

 

 

 - 水彩画