八重山の唄は生きている
沖縄に行くと、特に八重山のどの島に行っても音楽が地域に根付いているという事を感じる。慰霊の日の桃林寺の、鎮魂の為の杜の祈りが音楽の祭典で在った。そこにある共鳴してゆく空気の中で強く唄の力を感じた。沖縄の唄のことをもっと学びたいと思った。みんなで唄い踊るカチャーシ―。八重山に残された唄は生きた日本文化の一つの姿ではないだろうか。農村が失われると同時に祭りは形骸化し、観光化し、保存会の祭りになり暮らしの意味合いは失われた。日本では武士は床の間に刀を飾るが、琉球では三線を飾る。という言い方が沖縄では語られることがある。刀を日本人の魂とするのは、小田原の農民としてはいささか異論があるが、琉球では三線を心の中心に据えて生きているという事は理解できる。琉球王国では武士のたしなみとして、三線があった。男子しか演奏もできない。女性には唄う事も許されなかった琉球の唄。
八重山では唄が生きているという事が感じられる。文字のない社会では、すべてが歌によって伝えられた。アイヌのユウカラや古事記なども文字に起こされる以前の社会では、唄として記憶されていたものだ。琉球の「おもろそうし」も文字に記録されるまで、歌い継がれていたものなのだろう。長い物語を語り継いでゆくには、その専門の唄を記憶し歌い継ぐ一族が必要であったことだろう。八重山に残された歌には、その地域の記憶が残されている。八重山の唄について本を集めて片っ端から読んでいる。八重山の唄にある文化性は想像がつく。一般に沖縄の唄として、私が知ったものは、内地のいわゆる新民謡のようなものだったのだ。古くからある唄をアレンジしたものが、沖縄の唄として本土に伝わってきた。いかにもそれと分かる唄もあるが、琉球民謡の古典化されたものが、実は八重山民謡の琉球化であったりする。その琉球化された唄がさらに、西洋音楽風のアレンジが加わる。
石垣の白保から、2万年前の人骨が多数発掘されている。以前から沖縄では22000年前という日本では最古の人骨の出土がされている。日本人の形成された流れを想像するとき、琉球列島は重要な地域になる。4万年前くらいには日本列島に人が住み始めたのではないか。しかしそれが日本人なのかどうかは不明である。人骨が沖縄からだけ出土するのは、人骨が残りやすい石灰岩の土壌の地域があるからだ。今回白保から始めて全身の人骨が出土したという。100体を超えるという。かなりのところまで復元が出来るはずだ。我々の祖先の姿であろう。遠くアフリカで生まれた現代の人類の祖先が、ついに日本列島にまでやってくる。たぶんいくつかのルートで少しづつ少しづつ到着したのだろう。その後稲作を携えた人がやはり渡ってくる。日本列島に残る人が少しづつ増加し、日本人が形成されてゆく。
日本人の祖先の感受性が感じられる八重山の唄。日本人の暮らしを思い起こされる唄。八重山の唄に仲良田節といううたがある。西表島で一番古く開けた祖内という集落の唄である。仲良川の周辺にある田んぼの収穫の祝い唄である。今は無くなった稲葉集落の田んぼも仲良川のほとりにあった。稲の収穫を祝う祭りの歌だ。西表の自然は、人間を寄せ付けない怖さがある。その厳しい自然とやっと折り合いをつけた田んぼである。その田んぼを讃える仲良田節である。稲作が神事であった時代。シクワァーヨイ(初穂刈り)で初めて刈った稲を奉納する。この日より仲良田節が歌えることになる。収穫後1か月の間だけ唄う事が許された歌だそうだ。だからこの唄を覚えるためには隠れて学ばなければ覚えることが出来なかったといわれていた。唄と暮らしが一体になっている。