坊ケ峰の漫才

   

子供の頃の話だから、今から60年前のことになる。記憶ではあの日は暑い夏の日だった。山梨県境川村の藤垈の坊が峰にテレビ塔が出来た。山梨テレビの開局記念で坊が峰でお祭りが行われたのだ。甲府盆地の南側のなだらかな曽根丘陵に突き出たへそのような山が坊ケ峰だ。このお祭りは田舎の村にとっては東京オリンピック所でない事で、近所の子供が沸き立って出かけた。山の中で突然起われる不思議なお祭りに大いに期待をして出かけた。今思えば金毘羅神社4月10日のお祭りでも頂上にまで出店が出たのだから、当時の人は歩くことを少しも苦にしない。車のない社会というのは歩くのが当たり前。金比羅山の頂上までは2時間はかかかるだろう。800メートル以上の高い山だ。その頂上まで屋台を担いで登るフーテンの寅さんがいたわけだ。子供は普段は人気のない山の中の神社に突如旗が連なり、眩い出店があるのだから度肝を抜かれた。今は金毘羅山も頂上直下まで車が行くようになった。それでもずいぶん上ったところであるのは変わらない。そして、昔の賑わいは完全に失われている。お祭りの時にも昔ほど人が集まることはないのだろう。

近在の村人はぞろぞろと、並んだような行列になってお祭りの坊ケ峰に登っていった。私は向昌院から歩いて行ったのだから、途中で人が増えて一団になり、1時間半はかかった。テレビ塔ができる前には坊が峰には開墾の水を運びで通った。その頃の坊が峰はどこもかしこも開墾されていた。戦中戦後の食糧不足時代は日本中耕作できるところは至る所畑になった。何年か開墾するとその土地が自分のものになるという条件のはずだったから熱が入った。土地がないので移民が出た部落だ。まだ土地は何よりも貴重な時代だった。土地が貰えるなら、どんな努力でもした。向昌院でもサツマイモを作った。せっかく作ったサツマが猪にやられてしまったのは今も昔も変わりがない。御殿場の米軍の演習でイノシシがこっちに逃げてくるのだといわれていた。その坊が峰で一度だけ、たぶん空前絶後の漫才が行われたのだ。もちろん漫才は初めて見る不思議なものだった。

二人の決まり通りの蝶ネクタイをしたおじさんが、リンゴ箱を並べた狭い台の上に危なかしく載ってしゃべった。「え―こんな高い屋根の下の大舞台で、漫才をやるのは初めてのことで。」と皮肉とも、自虐とも思える冗談で始めた。冗談のつもりなのだろうが、笑って良いのか、失礼になるのかみんなかたずをのんだ。台詞まで鮮明に記憶している。むしろお客の方が気を使って緊張するという例の時間。その二人は空転を続け、ダラダラとつまらないことをしゃべった。誰の笑いもなく終わった。不思議だったのはその二人が少しも落胆をしていなかったことだ。笑いは最高の文化だと思うが、実に難しいものだ。記憶ではリンゴ箱の前に集まった観客は15,6人だったと思う。漫才というものを見るのが初めての子供たちだ。妙にしらじらしい空気の中で聞いていた。これではやる気が出ないのも無理もない。テレビがない時代、ラジオから聞こえるえんたつあちゃこの漫才というものを、初めて見れると期待してしまった子供の思い出。

坊ケ峰で行われたお祭りで漫才だけが強く残っている。そして当時の山の中の暮らしというものを思い出す。あの感覚は今とは全く異次元である。むしろ明治時代に繋がったような感じだ。テレビが出来て世の中が変わる。あの時もテレビ塔のお祭りの挨拶で聞いたような記憶。テレビ塔があっても、テレビなど縁がなかった。そのテレビ塔は今でもある。そして確かにテレビは社会を変えた。そしてテレビもその座をインターネットに奪われるのかもしれない。この春にも坊ケ峰に絵を描きに行った。金毘羅神社にも行った。しかし、あの開墾に通った坊ケ峰はどこを探しても今はない。箒草を集めた金毘羅山もない。記憶の中にあるものの不思議だ。私の絵にはあの坊ケ峰越しに見える甲府盆地が空間の鏡としていつも現れる。今はないのだが、有るものはある。自分という人間の中にしみ込んだもの。「あじのこが あじのふるさとたちいでて またたちかえる あじのふるさと」昔お坊さんから聞いた言葉だ。何故か記憶に残る。坊ケ峰と金毘羅山が私の阿字なのか。

 

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