自由になるための技術
技術は自由になるためにあると思っている。水彩画でも、稲作でも、養鶏業でも、技術があれば、何とか継続できる。技術はあらゆる分野で必要条件である。田んぼをやる技術がなければ、稲作農家はあり得ない。技術のない養鶏業など考えられない。それはラーメン屋であれ、大工さんであれ、何も変わらないだろう。まして、絵画制作では、技術が重要な基盤になるのは当然のことだ。絵画や彫刻のような芸術作品は手仕事として成り立っている。当然、技術の鍛錬を積まなければ、作品を作るなどという事は到底無理なものだ。発想を実現するのが技術だから当然である。稲作では技術があれば、病気が出ないとか、収量が多いというような分かりやすい結果がある。しかし、絵画では作家の独自の発想が大前提なので、技術というものが見えないものだ。それで、描写力のようなものを技術だと思いがちだ。ところが水彩画の本当の技術とは、自らの発見のための試行錯誤を、自由に行えるための何処にでも、何にでも進めるための技術だ。
技術というのは、作家の独自の発想が画面に於いて、臨機応変にあらゆる方向に自由に展開できるという技術のことだ。絵画においては作家自身の世界観がなければ始まらない。稲作の技術が味に集約するのか。収量に集約するのか。環境の永続性に、あるいは、省力化に焦点があてられるのか。それによって技術の向かう先は違うのだろう。絵画においても、技術が再現性一点に向けられたりすると、自由な発想から遠のくばかりである。先日、銀座の日動画廊で昭和会の受賞作品展を見せてもらったが、余りに描写性に偏っていた。新しい世代の陥った世界を知った。写真的な描写性を磨くというのは、芸術的な技術ではない。むしろ自由な発想を妨げる、職人的な狭い技術に過ぎない。実に哀れな絵が並んだものだ。日動画廊が、こういうものが売れるだろうと踏んでいること自体が、絵画芸術の衰退そのものを表している。商品絵画というものは哀れなものだ。
技術とは自由になるためのものだ。不自由な枠にはまり込むための技術など技術の名に値しない。以前うっかり、水彩画の永山流の絵など、簡単にやれると話したことがあった。そうしたら、笹村はほんとには出来ないのだろうにと陰口を言われていた。ああいう描写性だけの絵など、大した技術など要らない。以前からアメリカやイギリスの水彩画にはああいう傾向があったが、それは芸術としては評価されないできたものだ。上手い絵だと驚く人も居るのだろうが、技術ではなく職人の手順のようなものだ。水彩画の技術とは今一枚の絵(4月8日まで)でやっている大原裕行さんのような水彩技術のことだ。私も技術の勉強はしっかりしているつもりだが、大原さんの絵にはさすがに驚かされる。びっくりするような多様で複雑な技術が散りばめられている。そうかと教えられるものが山ほどある。正直大原さんの技術は水彩画世界では傑出している。まあ、世間が憧れる永山流でない方の技術のことだが。
私は、養鶏でも稲作でも、とことん技術主義だ。卵であれば何日間生きている卵ができるかに挑戦する。稲作であれば、有機農業で周辺農家より収量が多くなければ納得がいかない。絵画においても、水彩画の技術を突き詰めるように描いてきた。その技術は、技術としては表面に現れないような技術のことだ。どのような発想にでも、自由に対応できる水彩画の技術を獲得しようとしてきた。まだまだ到達したと言えるものではない。それくらい水彩画の技術は幅広く多様だ。砕け散るガラスが描けるとか、疾走する馬が描けるとか、砕け散る波の表情が描けるというような、描写の技術ではないのだ。見えている空気の感触を通して自分の世界観を何処まででも探る、というようなものなのだ。いまだかつてない、自分だけに見えている世界を摸索して描きとめる技術だ。だから、私絵画には水彩画が向いている。絵が出来上がれば、その技術は技術として残らず、実に素朴な誰にでも描けるなという画面になっていることが望ましい。