水彩筆3-3
こんな状態で描いてている。右下に5本の筆が並んでいる。この絵は3回持って行って描いた絵だ。
水彩筆の私の使い方を書いている。何か自分で気づくことがあるかもしれないと思ってのことだ。たぶん筆の使い方のことは他の人には参考にならないだろう。風景を見ながら、その日使いそうな大、中、小の5本ぐらいを水に浸ける。まず濡れていないと、すぐに使えないからだ。その日多く使いそうなときは、その日に使うだろう筆はすべて水に浸ける。水は当然新しいきれいな水である。5分ほど浸けて置いて、布で水をぬぐっておく。この準備時間が絵を描くときの気持ちを整えていることになる。気持ちによってその日の風景からの反応に従い、太筆で始めることにするか、中筆位いにするか、あるいは小筆に始めるかを決める。最初の筆をどうするかはかなり絵に影響を与えるので、結構ここに時間をかける。ここでどう始めるかの筆の選択は、その日描こうと考えている絵と密接にかかわる。ゆったりした絵で、薄い仕上がりで終わろうというなら、大体は一番太い筆で調子をつけてゆく。かなり詰めて描こうと考えた場合は細筆で始める。細筆と言っても私の場合の細筆は、5ミリくらいの太さはある。かなりきつく、こすりつけるように酷使して使う。中筆出始める場合が一番多いい。中筆と言っても隈取の大なのことになる。
描き始めると、息もつかずという感じで訳も分からず、考えもせず、大体のその絵のが流れに従う。一回目の絵を終わるまで筆を変えることはない。一回の流れは30分から1時間である。ハッとして目が覚めるように終わる。ここまでが極めて重要だ。この間は楽しいだけである。すごい絵が描けそうな気がしている。そして筆をおきしばらくまつ。これ以上描くためには乾かないとにはできない。30分から1時間ぐらい眺めている。そのあたりを歩き回ることが多いい。この後どのように流れを継いでゆくか、ここが水彩画では一番重要になる。大切にしているのは、直そうとか、修正しようという気分のときは、その絵を描くことは止めにする。この次の展開が見えた時に、再度筆をとる。調子が良いと次々に展開が見えるが、あわててはやらない。筆の太さは太くなったり細くなったり、これからは5本ぐらいをあれこれ使う。筆にとってはひどい仕打ちの描き方をしていると思う。筆を紙にこすりつけることが多くある。すぐダメになるが、べつに筆は消耗品だと思い気にはしない。
このぐらいまで一回の流れで描くことがおおいいきがする。
絵は立てたり、寝かしたり忙しく描く。流れるのが嫌というより、流れることで出来る濃淡を気にして傾斜を決めている。逆さにしていることも横にしていることもある。流れる感じを上手く取り入れる気持ちがある。水の量は極めて重要だ。筆はあまり洗わない。使っていた絵具の応用で混色を続ける。今描いていた色に何をどの程度混ぜればどんな色になるかを、確かめながら進める。今の状態の絵に必要な色まで混色する。できた色が他に使いたくなることもよくある。パレットは白でなければ描けない。パレットで色を確認する。それを塗った時にまた変わるのだが、ある程度はわかる。やり直しは全く効かない絵なので、前に前に行くしかない。そのために筆は多く用意して、どんどん変えながら描く方が使い勝手がいい。水の量、一筆の中に色の変化を作るような微妙な変化など、筆によって大きく異なる。水墨の筆はそうした変化によく対応してくれる。水彩は色のある水墨画。
筆は長く使えるものもあるし、すぐにダメになるものもある。毛が抜けたり切れたりする。描き方が結構荒いからだろう。そもそも筆の痛みなど考えては絵は描けない。傷んでゆく過程で自分の調子にある時期がある。購入した時には筆はまだ完成していない。自分の使い癖で筆はよくなる。だからよい筆とは自分の使い方に適合してくれる筆のことだ。そしてよ以上隊の時期を過ぎ、使い方を変えなければならなくなる。消耗仕切った筆の使い勝手もある。その筆でなければ出ない調子がある。それでもついに終わりが来る。筆は筆神様になる。私はお祭りをして、信仰している。筆神様は感謝と精進の神様である。筆は命あるむかものから作られたものだ。おろそかにはできない。長年使わせてもらった感謝と鎮魂。そして、ひたすらの精進を誓う。