学費が高すぎる

   

日本の学費はあまりに高額になった。学びたいと思う人間が学べる条件を作らなければ、日本は衰退する。国立大学が月額4万5000円。私は年1万円だったと記憶している。国立大学の当時の学費は現在の物価換算して月額2500円だという。18倍になった。留学したフランスでも無料だった。美術学校では画材の補助までいただいた。あちこちで助けられ、おかげで学ぶことができた。努力はしているつもりだが、まだ十分の恩返しは出来ていない。社会のためになる生き方をすることで、つじつまが合うと思う。高度成長期という事もあって、働きながら独力で大学に来ている人間も珍しくなかった。私は大学に行きながら、フランスに留学するお金をためることまでできた。その点、今の時代はずいぶん状況が悪くなった。働きながら大学に行くという事はほとんど不可能な状態である。なぜこんな事態になったかと言えば、政治の方向が学問を軽視しているからである。既存の産業の振興に目を奪われ、新しく切り開く心を失っている。

戦争で一旦解消された、階級社会が年々復活し、強まっている。ぬるま湯の中で、ゆであがるのを待っている状態である。もう逆上せているから、そこに気づかない怖さがある。政府は良い大学に入る努力すれば、上の階級に入れるという幻想をちらつかせている。学問をするのは、よい就職をするためではない。大学の意味の取違いが起きている。良い就職をするための大学の学歴であるなら、まさに受益者負担という事になるだろう。運転免許を取るための自動車学校と同じだ。大学というところは学問に触れる場所だ。すべての人間が学者を目指すわけではないが、純粋に学問をする人間に触れることで、真理の尊さに触れる場所だ。真理を目指す、功利的でない探求心を持つ生き方。大学は学問に、学者に触れることで人間を形成する場所と考えた方が良い。私にとっては良い先生、良い友人に恵まれ、自分というものの骨組みが出来た場所だった。

政府が憲法学者を軽く見ている。政府は実学偏重で、功利主義に冒されているのだ。能力主義は利己主義になる。功利主義に陥る。自分さえ良ければ良いという社会の浅ましさ。衣食足って礼節を知るという事が貧しい時代言われたことだが、階層が生まれ、上の階層に所属するからと言って礼節を大切にしているとは思えない。それどころか、上の階層の中でさらに這い上がろうという卑しい者が目立ち、醜い社会になっている。人間が何を目指すべきかである。日本の社会がどんな社会を目指しているのかである。これが定まらないから、功利主義に流れるのだ。封建主義の時代は確かに上からの価値を押し付けられて、不愉快な時代だろう。しかし上に立つ者にはまだ、国家という理念があった。現代の上に立つものは、保守主義者の顔をしてはいるが、実態はちんけな拝金主義者に過ぎず、何の理念も持たないものが大多数だ。

日本は瑞穂の国に立ち戻ることだ。未来型の循環型社会の手本になることだ。このままでは世界は必ず行き詰まる。その時に人類が生き残る道を示すことが日本の役割だろう。その道を指し示すのが大学の学問のはずだ。日本は江戸時代、循環型社会を作り出すことに成功した。その循環する社会に科学的知見を加え、合理的な社会を生み出すこを大学の学問の目標にすべきだ。もし、政府が本気で第3の矢を目標にするなら、大学からそうした次の展開が自由に構想されるように、財政が苦しくとも、大学にお金を出すべきである。大学を企業で役立つ人間の育成機関と考えるから、受益者負担で高額な学費という事になるのだ。江戸時代に生まれた俳句、盆栽、金魚、日本鶏、浮世絵、どうでもいいようなものに人間が豊かに生きるという意味が溢れている。お金ではどうにもならない、価値あるものがある。それを深めるのが大学で学ぶことだろう。

 

 - Peace Cafe