国家というもの
今年の世相を表す漢字というものが毎年話題になる。「安」という字が今年の字として選ばれたそうだ。安心というより、不安の安と考えるしかない。さて日本はどうなるのやらという不安にさいなまれた一年であった。私のように、憲法に従って平和主義で行くべきだという人間の不安は、安倍政権の軍事力依存の危うさに対する不安である。一方、軍事力がなければ、中国に押しつぶされると考えている人たちにしてみれば、アメリカの核頼みという状態に、それこそ不安にさいなまれているのではないだろうか。中国の軍事大国化と、同時に国内に抱える不安定要素の増大は、実に危険な領域に入ってきている。中国だけでは済まない。世界中でテロが頻発する状況である。日本でもテロが起こる可能性が高まっている。しかし、それに対する備えには限界があると、誰しも不安を高めている。アメリカでは、イスラム教徒の入国を拒否するという主張が、一定の支持を集めているほど何かが変わり始めている。
世界の不安が高まるほどに、強硬な意見が支持される結果になる。安倍政権の経済政策は、6本目の矢も一向に効果がないにもかかわらず、強い支持をする人が一定数存在する。不安が高まるにしたがって、安倍氏の軍事力依存の強硬策を支持する層が増加するのであろう。核武装していない日本程度の軍事力ではどうにもならないという事なのだから、結局のところ、アメリカの軍事力頼みの日本の国防政策である。アメリカとの戦争に負けて、アメリカに占領され、その結果アメリカを見返すというのではなく、アメリカに隷属するという道しか選べなかった。それは、不思議なことに国粋主義者の方がそうした傾向が強いようだ。その結果アメリカの能力主義というものが、日本の社会にも広がってきている。能力格差は仕方がないという考え方である。この能力主義が、大企業は能力があり、価値が高く、それを優遇し、世界との競争に勝つという事になるのだろう。
農業においても、同じような競争主義が主張される。日本の農業は競争に勝たなければならないと発破をかけられている。日本の農業が世界での競争に勝てないのは、今までの農業者の努力が不足したからだという事になっている。この見方はゆがんでいる。農業者も努力はしているし、他の産業分野の日本人と同等の能力の高い人もたくさん存在する。しかし、国の補助金政策や、農地制度や、歴史的条件や、そして国土の条件によって、その力がうまくかみ合わなかった。確かに、世界との競争に勝つことの可能な、日本の農業も存在する。そこを育てようというのも間違いではない。そのためには、農協の問題、中山間地の問題、環境保全の問題、地方消滅の問題。政策的な整合性を持って取り組まなければ、解決は出来ない。現状は企業に補助金を出して、大企業の農業生産法人を育成しようというような事になりそうだ。それでは、繰り返されてきた、補助金政策の新たな失敗になるだけだろう。
今年の一字を選ぶとすれば、国である。国家という単位をどう考えたらいいのか、頭を悩ました年である。イスラム国や、クリミヤ半島の独立を通して、国家というものが何なのかを考えた。企業というものは国を超えて活動をする。ベトナムで米を作って日本に販売する方が利益が出ると考える企業に対して、日本で農業をしろと言う国家の意味は、どこにあるのだろう。日本というブランドはある。しかし、魚沼産コシヒカリのブランドは、魚沼の小さな農家の類を見ないような努力によって作られたものである。こうした日本ブランドを企業農業が利用して、労働者は外国人研修生という中で、何が起こるのだろうか。私には無理に思えるが。地域に根差した、4000年の循環農業で育んできた人間という日本の財産は、今失われてきている。私はこの、瑞穂の国というものの暮らし方が、日本という国であったのではないかと感じている。