道具と材料のこと
道具と材料に関しては、惜しんだということがない。水彩紙も相当持っている。絵具も筆も、かなりある。篆刻の石も山ほどある。どうするのかと思われるかもしれないが、これでも十分ということでもない。描きたいと思うときに、描きたい紙や筆がなければ困る。作りたくなる石がそこになければ面白くない。水彩画を描くのに筆をやはり何百本も持っている。もっといい筆はないかと思ってつい買ってしまうこともある。今使っている筆が消耗したときのことがいつも心配で次を用意しておきたくなる。心配しながら絵を描くことは出来ないから、無尽蔵に補充ができるようにしておきたい。何とももったいない話だが、別段無駄にしているわけではない。平櫛田中という木彫家が100歳を超えてから材料の木を、30年分購入した。気持ちがわかる。今作るのでなくとも、そうでなければ作れないというところがある。絵具でも同じで、三岸節子さんは高価な絵の具ほど、無尽蔵になければ使えないといって、山ほど買い込んだそうだ。
中川一政氏は良い墨をもっていて、水墨画を描くときには、そういう墨でなければ十分な調子が出ないということを書いていた。墨の良さは私にはわからない。分かるようになって良い墨が手に入れたくなったら困ることだろう。筆の違いはそれなりにわかる。どんな良い筆でも使い込まないと筆はだめだ。気に入るようになじむまでには時間がかかる。はきなれた靴が歩き具合が良いように、どこかがすり減りなじんだころが一番私には使い勝手が良い。気おつけなければいけないのは、その良い当たりを通り越すと、おかしなことになる点である。だから次のものをいつも用意して、あれこれ使い分けながら、ここはあの筆、ここはこっちと筆を変える。大体3本くらいの大、中、小を使うわけだが、×2の6本いや、5本くらいは使う。小はめったに使わないので、1本でいい。ところがこの小の筆というやつは使い勝手のいい期間が短い。
判を作る篆刻刀というものがある。刀鍛冶が、玉鋼で打つ。などという大げさな印刀まである。もちろんそこまで高級なことがわかるわけではないが、大胆な仕事をするためには、いい篆刻等が必要だということはわかる。例えば石に線描で絵を描いたとする。良い刀でなければ、いい線は引けない。これは書と筆の関係と少しも変わらない。そういう線が石に刻めれば、なかなかいいものだ。だから刃の研ぎということが大事になるが、これがまた難しくて私にはできない。研いでくれるという、研ぎの専門家もいるくらいだ。もちろん自分で研げないということは、どうにもならないことで、ここが努力である。そうなると砥石の問題まで出てきて厄介である。だから私は超合金のものを使う。これは本来、硯石に彫刻をするようなときに使うものらしい。篆刻材料の石よりも硬い石を彫るということだろう。
水彩画を描くにはお金がかからなくていい。ありったけの気に入った材料を使ったとしても、月に1万円はかからない。趣味と考えれば、お金のかからない方のものだろう。田賀亮三さんという自由美術の作家がいた。水彩画のなかなか良い人だった。金沢の方だったので、親しくさせていただいた。田賀さんは水彩を描くときには、学童用のような、ペンテルの水彩絵の具を使った。これの方が良いと言われた。学童用で描いているということを自慢していた。私のように材料にこだわる人間に先輩として教えたい所があったのだろう。暮らしにはほとんどお金はかからないが、絵を描いたり、彫刻をしたりするには、それなりにお金がかかる。売れるということもたまにはあるから、材料費の持ち出しというほどではない。これも自給生活の一部のようなものか。