結城紬の幕を作った。

   

ギャラリーにかけてみたところ。ほぼ天井から下まで垂れさがる。

3メートル×3メートルの大きな布を作った。4枚作った。何か目的があって作ったのではない。布で空間を演出してみたくなったのだ。布の材料は結城紬の反物である。反物を7本使った。変化のある縞柄である。細い縞から太い縞で変化のあるものをさらに、7種組み合わせた。全体としては、深い沈黙を感ずるような独特の空間感がある。大きな絵を作るような気持ちで、作っていた。反物の幅は40センチ弱である。長さが12メートル前後。これで和服が一着作れることになる。手織りをする場合、12メートルの経糸をまず揃えて張る。それを巻き取っておいて、横糸を織り込んでゆく。その作業の具合で、40センチ弱が都合が良かったのだろう。和服は四角い布を縫い合わせて作られている。汚れて洗うときは、荒い張りと言って、縫い糸をほどいて、洗って大きな板に伸ばして張り付けて乾かす。

友人の金巻さんという方の家がこの洗い張りの仕事をしていて、子供のころこの仕事場に入り浸っていた。呉服屋さんもやっていたので、和服というものをある程度知ることがそのころにできた。父は布を扱う仕事をしていたので、その金巻さんの弟さんが絵を描いていて、今でも展覧会の行き来がある。和服は作られる時から、洗う時のことや、仕舞う時のことまで考えられている。桐の箱に畳んで重ねてしまえば、皺にもならない。これも日本人らしい暮らしの文化なのだとおもう。この和服というものが、着られなくなったのは本当に残念なことだ。和服をあるいは日本の布を、現代の暮らしで使えるようにしようという試みはいろいろあるようだが、成功したものはない。子供のころには和服で暮らしている人がいくらでもいたのだから、たった、70年で日本は洋服に、降服したのだろうか。いつか必ず日本の布は復活するはずである。今はまだ転進状態である。

紬の糸というものは、真綿から作られる。真綿と言うと綿なのかという人もいるが、絹の綿のことを真綿という。天然繊維で、絹のように長い糸は他にはないだろう。この絹糸を糸に紡いで出来る糸が絹糸で、糸にならないものを、真綿とする。短かったりこぶがあったり、完全品でないということらしい。その短い繊維の真綿を縒り合せて作る糸が紬の糸ということになる。だからいわゆる衣擦れのあるような、光り輝くような完璧な布ではなく、素朴感のある布ができる。それが紬という織物になった。だから、大島紬や結城紬と言えば一級品に思えるが、あくまで普段着の布なのだ。ところが、日本人の感性はこの普段着の調子にむしろ愛着を覚えた。明治から大正にかけて、全国の紬の織物が見直されることになる。そして、真綿から紡ぐのではなく、むしろ普通の絹糸をあえて、紬の調子に織るようなことが行われる。重要無形文化財7種のうちでは、結城紬と久米島紬が指定されている。

この布の良さを生かせないか眺めているうちに、大きな絵のようなものを作りたくなった。結城紬の良さを生かせる形で見える形にしたかったのだ。いろいろ結城紬を探しているうちに、京都で作られたらしい、機械織りの結城紬があった。この布の調子がとても良い。染めは草木染めで、実に深い色調である。しかもその紬の糸は手紬であって、紬の素朴感があふれている。この布に出会って、幕を思いついたのだが、要するに大きな水彩画を作ったような気分である。ロスコーの絵の世界に近い。この4枚の結城紬の幕を垂らして、その前にいると、日本の中にいるような気分になる。モネの睡蓮の絵に取り囲まれたようなチュルリ公園の空間に近い。そういえば、週に一回はあの部屋で過ごすような贅沢な一年があったことを思い出した。

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