水彩人の絵仲間

   

水彩人女流作家展

水彩人の仲間に久しぶりで会い、少し絵の話ができた。関内というところで飲んだのは初めてだった。危うく帰りの東海道線では寝過ごしそうになった。ずいぶんにぎやかなところで、久野の舟原という田舎の集落から出てゆくと、乱立するビルに圧倒されてしまう。関内には少し、早く着いて町の様子を見て歩き昼飯を食べた。田舎者には、歩き回るだけでなかなか興味深い刺激がある。強い日差しの日で、あたりを歩いていると、何かめまいがするようだった。いろいろのお店がビルの中にある。商店街というのではなく、ビル街にある雑居ビルが商店街のような感じか。神田に少し似ていると思った。たぶん田舎者の見当違いの感想なのだろう。どの店がおいしいのかなど到底分らないが、適当に入った中華のお店が案外においしかった。夜、みんなで入った飲み屋も刺身がおいしかった。いずれ関内に行って食べ過ぎた。

水彩人小品展

絵の話もいろいろしたのだが、誰もが絵の目的が違うものだと、だから絵が違うわけで、面白いのだろう。一番、驚いたのは、私が先日このブログで、川村良紀さんの個展を絶賛して書いたつもりが、ブログで川村さんをこきおろしていた。というような意見が出た。そうしたら、みんながそうだそうだと言い出した。誰かがどこかで、私の川村絵画の感想を印刷して回した人がいたようだ。それも有難いことなのだが、同時に出た意見が、何と私の絵の批評のすべて好き嫌いで書いているにすぎないと、驚くべき意見が出た。文章で書いてあることすら、これほど読み方が揺れるのだから、絵の批評を正確に伝えるということは、難しいことになる。私も今朝もう一度川村さんについての文章を読んでみたが、この文章はどう考えても、川村絵画の絶賛である。ただ絵というものと人間の関係を含め、その意味を書いていた。これが好き嫌いの批評と読む人がいる。たぶん人間は自分が読みたいところ以外読まないものなのだろう。

会場の様子

大原さんはいつもなかなかのことを言ってくれる。笹村は上手くいかないときのほうが面白い。しかし、その理由まで話して良くなられたら損だから、あとは言わないでおく。ずいぶんおもしろいことを考える人だ。このうまくゆかないで躓いている時の絵の話は、その昔、庄田常勝さんも同じことを言っていた。絵がうまくゆかないで、つまずくということは、実は理由がある。自分の中の明確でないものや、矛盾したものが画面に表れている。結論が出ていないのに何とかなりそうで描き始めている。私の場合そういう見切り発車は少ないのだが、書き出してみて、描くべきことが明確でなかったというようなことに、行き当たる。そこに戸惑いがあり、解決しようと無理をする。この時自分の絵の範囲というような枠を破ることがある。たぶん大原さんの言うのは、これに近いがもう少し違うような気もする。いずれ、失敗もまたよしという気分で、ずうずうしく絵を描くことができる。ありがたいことだ。

私は自分という人間への執着で絵を描いている。自分が見ているものを描きたいのだ。自分の周囲にいる人を描くとする。絵を描くと言えば形をとるとか、バランスがどうとかいうk十が普通は浮かぶ。そうではなく、周囲にいる人を思い浮かべた時には、形ではなく、その人の人柄とか、人間としての存在全部が浮かんでくる。私の人間の見方のほうを絵として描きたいのだ。その人間を描くということになれば、ただの黒い塊であるかもしれない。見るということはそういうことで、頭があり、首があるというようなことは、視覚的説明にすぎない。私はこの自分の中の、感じているとか、想像しているとかいうものを含めて、眼で見ている。その見かたを絵にしたいのだ。そんな自分の内的な世界の視覚化のようなことを、画面に実現したいのだ。

 - 水彩画