どうなる裁判員裁判

   

真鶴半島から大島 10号 ワトソン 夏の海である。やっとこういう海を恐れず描いている。

裁判員裁判の判決を、最高裁が基本精神から覆した。最高裁が著しく刑が重いということで、懲役期間を3分の2程度に減刑に変えた。こういう結果になることも当然ある。しかし、この流れの中で、裁判員制度をわざわざ導入したことを、最高裁が否定したことになる。最高裁は裁判員の評議を指導する、裁判官の指導を強化しろという意見を出している。それなら、わざわざ素人の感覚を、一般市民の感覚を裁判に導入すると言った、裁判員制度の主旨がおかしくならないのだろうか。私が心配していた通りの経過が始まった。今回の最高裁判決では、裁判員裁判で、求刑を大きく超える判決が増える中、過去の判例との公平性に配慮するよう促した形だ。とくに幼児虐待死事件の様な、現代社会の矛盾の噴出の様な事件では、前例主義には収まらない素人の感想がある。こんな事件がこれ以上続いてはならないという危機意識がある。その為に求刑を越える判決が出ているのだろう。むしろ過去の平均的な判決事例を変えてゆくということが、市民から突き付けられているのだ。

裁判員裁判は早急に止めるべきだ。裁判員を拒否する人が多いそうだ。精神的なストレスを抱えてしまった人もいる。それでも裁判員をやってくれた人がいる。立派な人だと思う。しかし、一般の人でない可能性も出てきていないか。立派すぎる市民が、中庸的な素人感覚の判決を出すとは限らない。私はもしくじが当たったらどう断るかと、いつも心配になる。決められた義務は果たしたいが、人を裁くということが心理的に耐えかねない。いざやるとなると、厳しく裁いてしまうような気がする。実際に裁判員裁判は一般の裁判に比べて、求刑越えになるケースが10倍もあるそうだ。つまり検察の求刑を飽き足らないとする感覚が働く訳だ。こういうことは、一般の裁判ではめったにないことらしい。どちらかと言えば、検察の求刑より軽くなるというのが普通の判決である。となると、裁判員裁判に当たった犯罪者は不運ということになる。こいつは重くしてやれ、それなら裁判員裁判にしてしまおう。こういう意図が働いたらさらに怖い。

しかも、今度は指導する裁判官への最高裁からの圧力である。量刑を前例から越えないようにということだ。出世主義の裁判官がかなり居る可能性がある。最高裁の裁判官に気に居られたい。何とか量刑が治まる様な指導をするようになるだろう。こうなるともう裁判員の普通の市民感覚というのは無意味ということになる。市民感覚などという物ほど当てにならないものはない。その時代に流されながら出来ている。それが世論であり、世論操作で政治を動かしたのが、ヒットラーである。独裁者は麻生財務大臣のいうようにその辺を上手くやるのだ。世論が健全なものであるには、自由な報道が不可欠である。現状のテレビ報道は、事件を週刊誌的にというか、興味を煽るように報道する。より刺激的な事実を掘り起こしす報道が、視聴率を取る。凶悪事件が減少しているのに、増加しているような印象を受ける。それが、世論が監視カメラ社会を止む得ないものだと受け入れることに繋がる。

何故裁判員制度を止められないかと言えば、メンツだけである。日本の社会に適合しなかったことは、明らかな結果として現われている。裁判は一つでも不公平であっては成らないものだ。結局裁判員制度は、裁判官の責任逃れの手段だ。しかも、被疑者の捜査段階の可視化の範囲も裁判員裁判に限定するというような、意味不明の判断すら出ている。裁判員裁判を隠れ蓑にしようという気がしてくる。そして、徐々に重罰主義が進んでゆくのではないか。子供の殺された親にしてみれば、死刑廃止は到底容認できないというのが、感情的に当然の反応である。そうした感情が社会的に共有されてゆくかどうかは、報道の姿勢であり、政府の世論操作である。そういうところから、監視社会が強化され、すべての行動が把握される社会。隠れることのできない社会。これは生きにくい社会でもある。そのバランスをうまく取ってゆくためには、裁判員制度は止めた方が良い。

 - Peace Cafe