派遣法の改正
下田 10号よく描く景色である。最近も行って来た。何度行っても面白い。何故この場所に引きつけられるのだろう。そういうことが分るまで行ってみたい。
派遣労働のすべてが悪いものとも言えない。その運用に問題がある。特殊な技能を所持した人を、一時的に必要とする。たとえべ水彩人でも、展覧会の搬入時にパソコンの打ち込み作業をお願いした。水彩人のメンバーには審査や部屋割りなどの、メンバーでなければできない仕事がある。そこでパソコンの打ち込みは、専門家にお願いした方が早いし、正確ということに成る。テンプスタッフにお願いした。会社であれば、当然そういう仕事が出てくることは珍しくないだろう。一時的な仕事を派遣業者に依頼する。それが、徐々に広がり、仕事の能率を上げるために、派遣で済む仕事は、正社員にはやらせない体制が生まれてきた。正社員は正社員でないとできない仕事をやるということだろう。企業が効率を考えて、派遣に任せた方が利益率が高いものは、どんどん派遣に変えるという流れが生まれた。そして、その派遣が日雇い派遣という形で、肉体労働者の供給方法に成った。
昔の日雇い派遣は口入屋である。口入屋が早朝、労働者の溜まり場にを作り、、労働者をトラックなどで集めて、土木工事現場等の人夫仕事に送り込む。当然、かなりの額のピンはねが行われる。怪我の補償もなければ、雇用保険もない。苦情でもいえば、暴力団が現われるという仕組みである。これを禁止しようとしたのが、日雇い派遣の肉体労働の禁止である。それが徐々に門戸が広がり、小泉内閣の時は、ついに製造業の派遣労働が解禁された。工場で同じ労働をしていても、正社員の半額くらいの給与で、働く人たちがどんどん増えていったのだ。能力給ではない。同じ仕事をしていながら、給与は3分の1という状態。あの狂気の秋葉原事件をおこしたのはK工業の契約社員である。そして、今度もアグリフーズの契約社員が、農薬を食品に混入したらしい。同じ労働をしていて、賃金があまりに違うのでは、やりきれない。労働が健全な人間を作り出すことにはならない。
3年という期限は何を意味するのだろう。働く人にとっては、派遣は正社員とは立場が違うということに成る。3年という期限を設けて人の交代をしなければ、派遣ではなく正社員ということだろう。人を変えてその分野の仕事は派遣に任せる。それが工場労働者であれば、永遠に派遣でその仕事を埋めようという在り方では、会社自体が健全でない。何とか安上がりの雇用方法を作り出そうということに過ぎない。一人の対等な人間を雇用し、ともに会社を反映させようというような愛社精神等というものは、どこかへ消えたのだろう。この派遣法改定の背景にあるものは、企業が何でもやれるようにしなければ、日本経済が衰退する、そして海外に企業が出てゆく。こうした政府が広めている、切迫した考えが背景にある。国家と企業というものが整理されないまま、企業が国の枠を越えてしまった。サムスンと韓国の経済の関係を分析すべきだ。サムスンの社員と、その他の韓国人とでは別のものである。
派遣法が出来て、国内の格差がこれ以上広がるとどうなるか。格差が賃金だけでなく、階層の固定化に繋がってゆく。江戸時代の士農工商を思い出すが、実質、人権の侵害された社会ということに成る。企業の論理を野放図に、社会が受け入れてしまえば、経済の合理性だけで、人間の労働者という側面だけで、切り売りされてゆく。日本が高度成長に向かったのは、敗戦後誰もがすべてを失い、原点から平等に頑張ったからだとおもう。身分制度の中で、固定化された社会では活力は生まれない。目先の経済合理性にこだわれば、むしろ国際競争に敗れる。日本人の優秀性は、稲作文化で培った、阿吽の呼吸による、チームワークである。行為した文化が失われてきているのだから、もう一度、日本人の再生に向かう方が賢明である。この恵まれた国土で、地について暮らすことを誰もが体験できる教育しかない。