水彩人の水彩画とは何か

   

水彩人展では、「水彩人の水彩画とは何か」という研究会を行う。東京都美術館で9月28日10時から17時までである。費用は4000円。その中で私は、10時からの冒頭、水彩画の意味を話すことになった。このブログでも何回か書いたことではある。この機会にもう少し整理して考えてみたい。産業革命以来、社会が大きく変わり、絵を描くということが一般に誰にも出来るようになった。美術史的に見て、絵画というものの位置は、二つに分かれた。一つの方向が商業主義絵画である。もう一つが私絵画である。社会が経済本位になり、経済的な意味があるものが評価される、という風潮の社会である。当然、絵画も商品として意味を持つことが期待される。いわゆる投機の対象としての絵画。将来の値上がりというような視点からその評価がなされることになる。当然経歴とか、傾向も、株のような評価と同じである。こうした方向は、いつの時代にもあったと思われるが、絵画の意味が商業主義にのみ込まれたというところまで来たのが、この時代の当然の帰結であった。

その反動のように誕生してきたのが私絵画、内行的絵画と言える流れである。自分の為の絵画ということである。絵画の意味を自分個人が生きるための手段として考える方向である。いつの時代にもあったことではあるが、絵を描くということが、どこのだれにも可能になり、自分の為に描くことが絵画芸術の主流になり始めている、ということを上げなければならない。何かの目的のためのものでなく、自己確認とか、自己満足とか、最近のはやり言葉絵でいえば修行としての絵画。あえて言えば、遺言のようだと思う。遺言は血縁の者に対する、後始末ということもあるが、自分の見たものを後世に残すということもあるかもしれない。自分が現在見ているものが、確かなものであり、価値あるものだと自覚した時、この場面を何とかして残そうということになる。これが内行絵画の始まりなのだろう。自分の見たものを、こんなだと示し残すという意味が、社会的にはあるのかどうかがわからない。絵画というものが、芸術としての社会的な存在ではすでにないのだから、芸術としての、表現としての伝達手段とは言えない形で、絵は描かれる。

このことが、水彩画のあり方に強く影響している。頭の中にあるイメージを出来るだけ正確に表そうとした時に、水彩画は良い方法なのだ。頭の中の自分だけの確認であれば、水彩画は実に向いている。頭に思い浮かべている状態は、水彩の状態に近い。素早く今頭に映っている、見ているものの、要点を描きとめる。だからあらゆる分野の人が、下描きの為に水彩を使うことが多くなる。仕事が早い。一気に進めることが出来るという意味では、水墨画などとも通ずるものである。水墨画が精神主義的な傾向が生まれるのも、頭の中にあるイメージを一気に表すために、描くときの精神状態が強く反映するためであろう。書の表現とも似ている。日本画の制作で、下図は面白いのに、本画ははつまらないということがままある。もう一度本画を描くことで整うのだが、勢いやその時の情感が失われる。この失われる部分を重視しているのが、水彩画ではないだろうか。

下図では、要点を描きとめたり、一部だけの細部を描く。必要不可欠なことだけを描く。私絵画には必要不可欠なものだけで、いいということがある。完成ということではなくメモなのだから、思いついたことを複合的に描きとめたりする。こうしてことは、本来の芸術とは別に考えた方がいいと思う。つまり、伝達とか、表現とか、そうした社会性から考えれば、あくまで自己中心的なものと割り切った世界に、水彩画の世界が広がってきているのではないか。

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