アトリエを作る
今暮らしている家は、昭和4年前後にたぶん、江戸時代からここに住んでおられた、一寸木さんという木挽きの方が建てた家だそうだ。その方はその後東京の方に出られたと聞いた。木の仕事をされていた方ということもあり、とても材料を吟味してある。家の形は田の字型の、小田原では典型的な形の農家作りである。尊徳の生家と同じである。こういう家以外建ててはいけないという不文律でもあったのかもしれない。こういうことが地域を作り出す。その家を、平成に入ってすぐ位に、神静民報社という地方紙を作られた、田中さんという方が購入して住んだそうだ。その方がまたずいぶん手入れをして、今度は凝った様相の家に直した。しかし、亡くなられて空き家になってしまった。その家を私の母が山から下りたくて購入したのが、これまでの経過である。私が80歳になる頃、100年の家になる。それまで私が生きて、この家に暮らすことが出来ればありがたいことだ。
自分の絵を描く場所にするために、あれこれ手を入れてきた。家も里山と同じで、手入れを続けることで、使いやすい場所になってゆくのだと思う。まず、絵の展示室を作った。自分の絵と向かい合うための部屋である。絵を描いていても、一度描き終えてしまうと、案外自分の絵をじっくり見ることがなかった。そこで、しっかりと絵を展示し、自分の絵と向かい合い、確認したかった。次に、絵の倉庫を作った。隣の家が空き家になっていて、競売にかけられることになった。その段階で話が来たので、格安だったので、カヨ子さんが購入することになった。そして彫刻のアトリエにした。一番乾燥するその2階に絵の倉庫を作った。そこに、桐の箪笥を2棹つくり、紙と絵を収納した。今回いよいよ、アトリエを作った。前から描いていたのが、この家の南側にある1間巾の廊下である。長い廊下で6間ある。戸を開ければ、玄関から続いて、7間の距離が取れる。庭につながっていて、明るくて、絵まで距離が取れるのが、絵を描くには良い場所だった。
今回廊下につながっていた畳の部屋を板の床にした。板の方が絵を描くのに具合がいいからである。全体がアトリエのようになった。田の字型の家だから、田の字すべてが一部屋になったような感じで、中央に1本柱があるだけで、取り払えば、すべて一部屋のようでもある。昔から、体育館のような唯の空間を作り、この空間に適当に暮らすような家が一番だと考えていた。結局のところ、今の家はそういう家になった。大きな空間の一部屋が、場合によって、障子やふすまや移動式の壁などで、区切れるだけの家である。押入れとか、収納がない。何かを入れるというところがないので、出来る限りものを整理して、箪笥や茶箱に入れてある。残しておこうとまだ考えた絵は、彫刻のアトリエの、2階にすべて移した。アトリエの前に2坪ほどのテラスを張りだした。ここに出ると、庭に居るようである。庭をもう少し手を入れたいが、それは涼しくなってからだ。
床下収納を、床を張るついでに作った。毎年暑くなり、味噌醤油を保存する場所が必要になったのだ。床下が結構の高さがあり、入れる。そこで床下自体を保存庫にした。なかなかの味噌蔵的環境である。出し入れは少し大変だが、そう動かすものではないので、これから大いに利用したいと考えている。この家は地震には弱いだろう。今の建築基準法では、許可にならない家である。ただし、平屋だし、屋根は銅板葺なので、重いということはない。土台も、家自体が石の上に置いてあるだけだから、間違いなく家が飛び上がったり、移動したりはするだろう。柔構造ということで、つぶれることは免れるかと思う。ともかく絵が描きやすいということだけを考えて直してきた家である。購入したのが15年前。それから、直し続けて今に至っている。これだけの素材の家が壊されるところだったのだから、自分が住むことが出来てお互いに良かったと思っている。