どぶっ田の改良
「どぶっ田の改良」著者岩田俊一(文芸社)田んぼの仲間のまごのりさんのお母さんの実家の祖先のかかわった話である。秦野の大根の耕地整理を中心とした、田んぼの経済にまつわる話である。大根村落幡地区のどぶっ田をどのように改良していったのか重要なことが書かれている。以前武士の家計簿という話が、とても面白かった。家計簿から、武士の本当の暮らしを推察して行くものである。この田んぼの話は、まさに田んぼの家計簿から、百姓の本当の暮らしを浮き上がらせてゆく。厚木生まれの農民小説家和田伝を思い出しながら読んでいた。和田伝はこの地域の百姓の姿を、私小説的に浮かび上がらせた。小説であり、文学としての思い入れで書かれている。長塚節の「土」や吉野せい「洟をたらした神」山下惣一「減反神社」等どれも百姓小説として興味深いのだが、「どぶっ田の改良」にはそれ以上の現実世界という面白さがあった。
江戸時代の田んぼの権利関係はどうなっているのか。どこの誰の、領分になっているのか。支配体制と年貢の違い。落幡地区では何と3つの種類の権利が生じている。幕府直轄の御領地と、旗本成瀬、松平の2家の知行地とがある。直轄のご領地は後に、佐倉藩主堀田家に与えられることになる。落幡村の石高は、1200石。うち74町4反が田んぼ80町4反が畑。農家数が119軒とある。1件当たりの平均面積が、1町歩を越えているから、三反百姓という言葉からすれば、広い方と言える。明治初年の資料では田んぼ84町7畝。畑83町1反。121戸あって、内農家数が103戸とある。収穫高は1反分を1石とみなしている。1石=1,000合(1年に一人が消費する米の量)1年では150キログラムとなる。江戸時代の田んぼの生産性はどうだったか。反収150キロとは、2俵半ということである。私たちの田んぼが、8俵であるから、その3分の一以下である。しかし、一般に1反1石、一人の消費量と言われていたようだ。その貴重なお米の半分が年貢となる。
江戸時代は米以外の農作物に力が入る。秦野大根村では、葉たばこは江戸時代から作られていた。国の経済が、つまり税金の大半が、米からである。それは明治時代には地租という形に変わり農地すべてから、農民はさらにきびしく吸い上げられることになる。大正期に入って、田んぼの面積が85町、畑が84町である。明治6年の記録でも田んぼは反収150キロを切っているから、本当に生産性の悪い田んぼだったのだろう。江戸時代の豊作の記録で、反収八俵480キロというのが限界と書かれたものを読んだことがある。このほんではこのどぶっ田を良田にしてゆく、耕地整理と河川改修がテーマである。ここに部落の普請と現代の公共事業との違いをみる。つまり、江戸時代の普請はたいていの場合、自己負担であり、部落の共同事業ということになる。河川の改修すら、その地域に暮らす人たちが、改修して行かなければならなかった。当然、藩を挙げての大干拓事業なら別であるが、一般には暮らしている者の責任とされた。
江戸時代は自己責任の時代のようだ。お上は下々の者の暮らしの面倒までは見てくれない。農地を改善する水土普請事業は自己責任の中で、どのように進められたのか。相談事はどのように行われるのか。地域というものが間違いなく、重要な枠組みであったのだろう。どぶっ田がまず耕地整理される。田んぼの耕地整理は明治政府の重要な政策であった。1割程度の補助金が出る政策が行われる。1反を一区画として、道路と水路が直接接するようにする。田んぼは河川を中心にして出来上がるため、常に洪水などで位置が変わる。そのために、関東地方の田んぼは権利関係も複雑化し、不整形化したところが多かった。明治に入地租に変わり地主や自作農は、土地所有権を持つが、その地租は重く、耕地整理を行うのは、政府、地主、そして小作農すべてにとって、行わざる得ないこととなる。この本が提起していることが、あまりに面白くて、一気に読んだだけだが、もう一度じっくり読みこんでみたい。