原子力規制委員会の意味

   

日本原子力発電(原電)が、敦賀原発2号機(福井県敦賀市)の真下に活断層があると認定した原子力規制委員会の調査チームの専門家たちに、「厳重抗議」と題した異例の文書を送りつけた。――東京新聞

規制委員会と、規制される企業との間に、規制委員会に対する認識の自体の問題がある。本来であれば、国の設置した規制委員会の規制に従うしかないのが、一般の企業である。それがそうならないのが、原子力という国策企業の在り方である。国を国が取り締まることが出来るのかが問われている。食品であれば、内閣府に食品安全委員会というものがある。この組織で食品の安全について、研究審査を行い、基準作りを行っている。この組織に中立性についても、さまざま意見はあるが、食品安全委員会からリスクのある食品と評価されたことに対して、企業から各委員に対して、圧力的意見が出てくるようなことはない。不満はあるにしても、その範囲で食品を生産するしかないという態度が、一般の企業の姿勢である。消費者からは食品安全委員会の基準が諸外国に比べて、リスク評価が甘いのではないかという意見は良く出されている。

なぜ、日本原電という企業が活断層の判断に対し、異議を申し立てているかである。簡単に言えば、抗議をしていれば、政府が政策を変えて、覆るという判断があるからだろう。一方、規制委員会に任命された、地層の研究者たちはこういう圧力に対して、どう受けとめるかである。圧力を受けた以降判断を変えるとすれば、これはこれで原子力規制委員会というものの独立性が疑われることになるだろう。研究者としての立場はどうなるかである。こういうやり方を原電が取ったということは、裏工作が効果なかったということになるのだろう。今までなら、何やかや圧力をかけて意見を変えさせてきた。もんじゅの1万か所にも及ぶ、点検ミス事件を見ればその杜撰さと、インチキは明らかなことだ。適当にやって来たのだ。あの福島事故後ですら、この程度のレベルの安全意識なのだ。活断層ぐらい、適当にごまかして置けばいいのに面倒なやつらだ。というのが本音と思われる。

同時に出てきたのが、敦賀市長や、福井県知事の泡を食った対応である。地域の経済をどうしてくれるのかということが、顔に如実に表れていた。安全なぞ経済の前ではどうでもいいという本音が見える。今日のご飯が食べられないものが、明日の危険などどうでもいいという話だ。こうしてお金のためには命もいらないとやってきたのが、日本の恥ずかしい現実である。高度成長期の公害事件など、今の中国を笑うことなぞ出来ない。こうして政治が安全に絡んでくるというのが、そもそもおかしい。安全というものは、疑わしき場合はすべて危険としなければ成り立たない。土砂災害が起こる可能性がある。私の家がそういう地域に組み入れられたのは、起きる可能性であるが、誰にもわからないことだ。わからないけれども、そのリスクを考えた上で対応しようということだろう。

原発はすでに、新設できなくなっている。経済性からあまりにお金がかかるからだ。安全対策を考えたら、もう経済性がない施設になったのだ。アメリカでも新設がないそうだ。放射性廃棄物の処理にまともに取り組めば、経済性がなくなっている。だから、国が国策として「原爆を匂わせる作戦」をやめれば、もう経済的に要らない施設になった。だから、日本が原発輸出でもうけようという対象は、核保有希望国である。いわゆる死の武器商人を日本という国が率先して行っている。何が平和憲法国家かと、世界から見られている。こんな状態の安倍政権であるから、原電も文句を言っていれば、規制委員会ぐらい覆してみせるという腹だろう。黄色い朝が近づいている。100年の展望ある経済を考えたら、原発は損だ。

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