教育委員会問題

   

教育ほど重要な仕事はない。私も7年間教員として勤務した経験から考えても、教育は大切なことだと思う。同時に、実に難しい仕事だと思う。人間の未来にかかわる仕事でありながら、それに相応しい事を出来たかと言えば、申し訳ない気持ちが蘇ってくる。思想哲学を伝え無ければ教育ではないし、学校教育の中で何が出来るのかという事が、難しい事になる。美術を教えていた。何故美術かと言えば、教える具体的なものがあるから選択をした。一緒に修行する形を見てもらいたかった。人間はこうあるべきという、私案を、具体的なことを通して伝えたかった。この花をこの色とこの形で見るのは、何故なのかという事を考えてもらいたかった。そう言う原理的なことを伝えようとしていた。簡単に整理してしまえば、時代や社会への挫折感を教育の中で取り戻せないかという気持ちもあった。世田谷学園という、とても自由で、意欲的な状態の中で、思い切ってやらせてもらった。恥ずかしくなるが、有難いことであった。いくらかでも伝わったことがあれば幸いであるが。

例えば宮沢賢治の詩をみんなで読む。それを語り合う。そして絵にしてみる。絵にしてみることで、自分の受け止めた世界観を確認してみる。雲の詩を読み、雲を見る。そして雲を描く。物を感じるという事がどういうことなのかをそれぞれに体験してもらいたかった。生徒を教えるということは、やりがいもあるし、力も出し尽くせたと思う。問題は、学校の目指す方針というか、担任や父兄の期待と、私の目指す所を勝手に線引をして広げてしまい、辛かった。何か言われたというようなことは全くないが、勝手にそう思い込んだ。例えば筆記試験をする方針だった。描くという前に考えるという事が大切だと考えていた。しかし、迷惑な教師であったようだ。私が筆記試験をやると言えば、誰も止めることは出来なかったが、英語や数学だけを教科と考えている人たちにして見れば、30分でも美術に時間を割くという事が、面白くなかったのではないか。結局は止めた。もちろんそんなことを言う人は誰もいなかったのだが。

大津市の教育委員会、横浜市の教育委員会。そして、小田原市の教育委員会。とても不満がある。あえて自分の経験を書いてみたのは、あまりに教育という事から遊離した形で、行政的な下請け教育委員会があると思うからである。教育員会の役割を理解していない。形骸化しているというようなレベルなら、まだましである。問題をすり替えるごまかしの役割をしている。大津市の教育委員会には社会的視野がほとんどない。アンケート結果の見落としはひどい。他人任せで、実を言えばアンケートの報告を受けただけだろう。事なかれが蔓延している。怖いほどの、無感覚。問題の存在すら気付こうとしない形式的教育委員会。横浜市教育委員会では、一方的に低レベルのセシューム含有食品の排除。なぜ、教育委員会レベルで、法律を越えた判断が出来るかが理解できない。法の基準は社会全体で、作り上げて行くものだ。社会全体に視野を広げず、自分達だけがいいというのであれば、独善である。独善を通そうというなら、せめて横浜市の条例を作るように働きかけるべきだ。まさに教育的でない教育委員会。

小田原では、路上生活者に対する、襲撃事件が何度も繰り返されている。今だ収まらない。この事に対する教育委員会の対応は、実に形式的である。細かい点は対策の過程なので、ここに書くことはできないが、路上生活の人たちが、命の危険を感じている状態が4月から続いている。形式主義の責任逃れではなく、自分が出掛けて行くくらいの真剣な対応して欲しい。現時点では教育委員会の対応というより、教育員会にかかわっている、市行政の対応という方が正確なところだろう。形式的に連絡をしたくらいで済まされているように見える。連絡をされても学校だけでは、対応できない状況なのだと思う。本当のことまでは分からないが、事件が起こる前に、教育委員会が主体的に率先して、対応すべき案件である。学校がだけでは、対応できない社会状況も存在する。こういう時こそ、教育委員会が前面に立つことで、生徒への影響が軽減できるはずである。

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