いのちの事

   

命に変えられるものはない。死ぬということは、すべての終わりである。風になって存在するようなロマンティクなものの訳がない。今という時は、生まれ、死にいたるまでの、瞬間、瞬間のいのちの連なりである。誰も等しくいのちに向かいあい生きている。そして終わりがある。向かい合って考えるとじつに怖ろしいことである。生きているということは、まれにみる幸運でかけがえのないことである。そこから、いのちを疎かにしたくないという気持ちが生まれ、宗教になり、哲学になる。この大切な命を捨てざる得ない社会が、続いている。3万人の自殺者が続くような社会は、どこかが間違っている。この辛い感じが想像できるほど。息苦しい現実である。胸苦しい、やり切れない、社会。日本は良い国である。恵まれた国である。日本という国は客観的に見ても、悪い国ではない。経済も円高になる位には評価されている。

戦後、何としても日本を復興しようという必死の頑張りが、前向きな国を生み出していた。その前向きな空気は、一人ひとりの生活が良くなるという実感に支えられていた。頑張れば良くなる。頑張る方法がある社会。ところが、何是か今の状況は頑張った結果が、空しいという状態。頑張った結果がこんなことだったのかという、失望感が漂っている。日本人が目指して来た経済成長という合意が成立しない社会に立ち至った。それは、世界経済の動きからも来ている。競争は必ず勝者と敗者がいる。基本的な条件というものがある。こういう競争の中にいるという事自体が、充実感を失ってきた。国それぞれに、持ち合わせた条件がある。日本は石油が出る。金が出る。こういう資源国ではない。日本人の能力レベルが下がれば、それは経済の状態に忽ちにも反映する。日本人が戦後経済競争で優位に来たのは、日本人の潜在能力が高く、それを上手く生かすことが出来る、比較的自由で民主的な社会が作り出せたからである。この自由で比較的民主的な社会は今もある。

頑張れば何とかなるという感じがだんだん薄れてきている。それもあるが、こういう頑張りに意味があるのかという、目的の喪失が大きい。日本人の潜在的な良さ。勤勉に働けるとか、気遣いが出来るとか、自己犠牲が出来るとか、観察力が高い。そのような資質が、上手く発揮されない社会。その原因は日本人が自然に従う暮らしから離れたからだと考えている。祖先に見守られて生きるという安定を失った。学校教育で言えば、戦中戦後の学校教育は、今と比べたら、でたらめであった。私など60人クラスで適当にやったのだ。明らかに今の方が、親切丁寧である。良くなっているとしなければおかしい。基本的な日本人の生活からまなべるものは後退した。これは繰り返しであるが、田んぼを止めたことが響いている。自然とともに暮らしていると、イノシシに麦をやられたり、台風で田んぼが崩壊する。やり切れないことを受け入れるしかない。

方角を失った社会。頑張る気持がいのちを支えていない。生命力の弱まり。石は落ちている時には止められないとするなら、今は落ちている時なのか、どん底まで来ているのか。命が弱まると同時に、いのちへの執着が目立つ。アンチエイジングとか、健康志向とか、サプリメントとか、健全とはいえない社会風潮だ。長寿世界一を目指すとか、書いているが。これは皮肉である。毎日生きていることを、せめてもう少し深めたい。一日の味わいを深めたい。こういう欲である。田んぼは流されたが、残った所もある。残った所でその分頑張ればいいと考えている。小麦は来年の種ぐらいは残った。来年はイノシシを捕まえてやろうと思う。しばらくは考えたくもなかったが、少しづつ回復した。放射能だって、今年よりは、来年の方が減るだろう。いのちは辛いことは多い訳だが、受け入れて生きることの方を考えることにする。

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