記憶と絵画
先日、水彩人の集まりがあった。大抵は集まりの後、時間のある人は飲みながら話をする。話をするのは絵の事ばかりである。絵の話がこんなに出来るということは、稀有な素晴らしい仲間である。水彩人では水彩絵の具(アクリル絵の具を除く)ということを、募集要綱に明記することになった。喧々諤々と論議された。そもそも芸術において材料を規定する事自体、問題がある。芸術において、材料うんぬんなど、あればあってはならない要素である。作家はどこまでも自由に材料を選び、制作すべきなのだ。余りに当然のことだ。それなのに何故、水彩人ではこうした話になったのか。水彩絵の具にこだわることなど、無意味以上に衰退の兆候だ。にもかかわらず、あえて、水彩画という限定的な主張をしているのである。いわゆる絵画芸術というものが、終焉してしまう危機感からである。
しかし、そもそも絵画が命を保っているのか。という議論に、進んだ。青木さんが『絵画は平面という、シンプルな方法であることで、もっとも記憶に残る手法なのだ。』『だから芸術の一分野として絵画は永遠の価値がある。』こう言われた。唸ってしまった。その通りだと納得した。確かに青木さんの絵を記憶している。記憶していると言っても、細部まで記憶しているのでなく、全体のイメージとして記憶している。私自身の絵も同じである。頭の中に私の絵というものがある。それは私自身が現実の世界で見て記憶している風景と同じである。平戸の集落というものの記憶がある。平戸で描いた幟の絵の記憶がある。まるで同列のことなのだ。記憶の中に残っているような情景をえがいているということになる。それは実際に見た景色であることもあれば、宮本輝の小説の中の、バンコクの蜘蛛の巣のような水路の淀みであったりする。記憶の中に淀んでいる風景。それを描き出しているのが絵なのかもしれない。ゴッホの教会であり、マチスのエスカルゴである。
記憶と直結するイメージの再現。『物にしないという強さが平面にはある。』とも言われていた。それは私が考えている水彩画のことであるので驚いた。水彩画を選んでいるのは、本質と直結するからなのだ。私の場合、直結するということは、骨格を見つけ出し、骨組みを示すという意味になる。大事な核心をメモするだけでいいと考えている。骨格以外の尾ひれは、どうでもいいという考えである。とかく尾ひれの付属の物語を抜き出すというようなことも、絵画ではありがちなことである。それだけに何も無い絵というものも良くある。素材というものに寄りかかるという事がないだけに、尾ひれだけでありますと、それはそれでアサハカに存在を表してしまう。私が立体を作るばあい、まさにその尾ひれだけになる。どうでもいい本質から離れた、面白い物語で物を作っている。テーブルを作ればそれも尾ひれで作る。
一切を抜きにして、そのものの本質だけを描き出す。本質だけが示されるという事が、より深く記憶に残る、核心を構成する要素なのではないか。記憶の中では、すべてが質量を失う。より記憶の姿にに近いという事が、水彩画の価値ではないか。記憶に残るという価値は、ゆっくりと浸透するということになる。いつの間にかその人の脳裏に定着して、その世界を共感する事になるかもしれない。こういう考え方は、議論の中からでなければ出てこない。とことん絵の事を話し合うことは、水彩人の仲間ならではの良い習慣である。世の中の大抵の絵描きは絵の話をしないし、特に人の絵の話など全くに聞こうとしない。この道一筋の職人的なのだ。自分を磨けばいいと考えている。自己否定しながら新しい地平に飛躍するという事が無い。
昨日の自給作業:草刈り1時間 草取り1時間 累計時間:5時間
桜の開花4日、プラム3日、桃8日