学校教育とは何か。
学校教育は人間を作れるのか。江戸時代は義務教育はなかった。必要に応じた読み書きそろばんの寺子屋である。現代社会は大多数の人が義務教育の9年間を受けている。1975年以来、90%を越える若者が高校教育を受けている。そして現代は50%の人が大学教育を受けている。教育に効果があるなら、優れた人間が増えて、良い社会に成っていなければ困る。進学率のまだ低かった時代と比較して、現代の日本人はなるほど良い教育を受けたというような結果になっているだろうか。到底そうは思えない結果である。原子力村の人など、高学歴に違いないが様々な徳育が不足ではないか。教育が悪かったというより、学校教育などそもそも人間形成には効果がない。せいぜい小学校レベルの学力が役立つ。気休めでやらないよりはいいという範囲のものの気がする。人間を作る教育が、学校ではないということだけは確かなようだ。
学校教育の充実が繰り返し言われ、高校までの授業料の無償化がなされた。小学校は35人学級に向かっている。それが当然の社会正義のように言われることに違和感がある。学校教育と言うものを受けたが故に、人間の何が変わるのだろう。社会が人間を育てるように出来ていないことが問題なのだ。10歳位から丁稚奉公していた若年労働の時代もある。人間が駄目になる訳ではない。そこで磨かれて光輝くこともある。おしんの世界である。社会が価値基準を失っている中では、義務教育は成立しない。学校教育で一応行われているのは、日本の企業で役に立つ能力を高める教育と言うものではないか。君が代斉唱の強制化など、まさにそう言うことのような気がする。一種の踏み絵で、毎日学校に通う。そう言う規律を守れない人間を振り落とす仕組み。無意味に従うことのできる人間の育成。国歌や国旗の善悪を言っているのではない。
学校で何を学ぶのかが明確にされない限り、教育は意味をなさないだろう。橋下大阪市長は教育が悪い、何でも平等の公教育に問題がある。学校に競争原理を持ち込むと発言している。教育の本質を考え違いしている。問題は何に向かって競争するのかである。数学を学校で学ぶ理由はどこにあるのか。計算が早くなるためではない。多様な考え方の訓練だと思う。論理的に思考する。多様な考え方が存在し、回答を探り当てるには、様々な方法があると言う事ではないか。美術のことはある程度分かるが、JAS基準の色彩を覚えろと、それで色彩は十分である。という企業の要望がある。そうではない。色彩は無限であり、人間の思想まで反映するものだと言う事を知る事が大切。筆触に言葉以上の思いを込めると言うことがあると、そういう表現が美術なのだと言う事を、経験するのが美術教育である。こんなことを一般化して学校で学べるのかと言えば、無理である。色彩の名前を100覚える速さの競争に意味は無い。
英語を小学校でもやるというようなことは、まさに義務教育のビジネススクール化である。世界のビジネス競争に勝つための教育。本来の教育はすぐには役に立たないものだ。公教育では正義とか、社会とか、生きるととか、暮しとか、そうした価値観を教えなければならない。人間を育てると言うことはそう言うことではないか。この社会の世渡りの要領を教える学校はいらない。人間は社会の中で育つものだ。社会がその受け皿機能を失う中で、学校で人間を作れと言っても無理だ。無理に行えばはみ出る者が居る。それよりも、まともな地域社会を作り出す努力ではないか。地域の暮らしが生産が見える形で存在すること。投機とか、値上がりとか、見えないもので利益を生み出すような社会では、教育の成功例がホリエモンと言うことになる。労働によって生きる。この原点を教育が取り戻さない限り、教育は再生されない。
昨日の自給作業:みかんの収穫2時間 累計時間:11時間