中国の期待と不安
日本はアジアに位置する国である。文化的にも歴史的にも経済的にも、中国とは古く長い付き合いである。不幸な時代もあった。侵略的移民をしたことさえある。尖閣列島やノーベル平和賞受賞で急速に、中国の危うい側面が世界にさらけだされてきている。そして、この間も日本の方角はアジアの一国である現実に向かい始めている。それは国というものを越えるという動きでもある。国家主義の克服に苦悩しているのかもしれない。経済というものが国家を越えて動いて行く。アメリカへの輸出は伸びない。中国への輸出の方大きくなっている。経済圏としてのアジアは数年先には、域内貿易がEUを越えるだろう。アメリカはアジアへの、日本への輸出の増加で、経済の苦境を打開しようとする。アメリカという国家のいつもの正義と、アメリカの経済とが、矛盾しながらも経済を優先して動こうとしている。アメリカの正義の建前についてきた日本。軍事的に保護されて、国の運営をしてきた日本、今やその矛盾を増幅して受け取らざる得ない状況になっている。
アメリカの軍事的傘に入るなら、牛肉を買え。韓国はアメリカとの自由貿易協定(FTP)の道を選んだ。北朝鮮の暴虐にさらされているから、国内の農業を切り捨てたようなものだ。日本はTPPというアジア全体の、関税撤廃の協定に入ろうとしている。自由貿易協定を避けてきた政府の姿勢を、後れを取るということで、報道も急速に自由貿易主義者に変貌しようとしている。いずれにしろ、経済が輸出産業に依存しているのだから、経済苦境を抜け出すためには、国内に犠牲となる産業があっても仕方がないという論調が広がる。経済がそのことで好転するなら、その方向もたしかにある。しかし日本の経済が自由貿易協定によって、良くなることはまず無いと考えておくべきだ。企業の業績は上がるかもしれないが、日本人の暮らしとは違う。日本は日本の自力の位置まで、後退して落ち着く。今まで要領よくやりすぎただけだ。そのことがどこかの国の犠牲の上に成り立っていた事に気づくべきだ。経済は競争なのだから、負の面もある。EUの経済状況を見れば、ギリシャの問題をドイツが抱えなければならない。
日本は日本の自力を高め、その自力に従い暮らしてゆくことだ。それは人間という、個の単位に立った時も同じことである。学んで自力を高める。これ以外に深く豊かに生きることはできない。その原点を固めることが第一である。その上で国という枠組みをどのように解消して行くことが出来るかを考えるべきだ。幸い日本は恵まれた水土の国である。普通に生きようと思えば、不可能ではない国である。何も持たない人間であっても、働ける身体と、努力する精神があれば、農業をやって普通に暮らして行ける。それは日本という国という大きさになっても、その身の丈に合わせた力量で生きるべきだ。どこかの国に迷惑をかけたり、どこかの国を押しのけて、日本だけが良い暮らしをすることが良いことにはならない。エネルギーと食糧を輸入に頼らなければ、成り立たない国では、いかにも不健康である。地域としての自立と、域内という枠組みの理念を明確にする。アジアの一員としての日本の責任と安定である。来年半ばにはその決断が待っている。
中国はその本質に、中華思想がある。他を顧みないという国益意識がむき出しになる。中国の格差社会は限界を迎えている。国内の危機的な状況が、日本敵視政策に表現されている。しかし、各国の経済が国を越えて結びつくことで、国益がすでに変わって来ている。すでに日中の経済規模は、日米を大きく超えている。アジア全体でみれば、60%を超えている。尖閣など実は小さなことだ。尖閣で見せた中国の牙は中国の国内事情であり。中国に対する危うい国という不評の方が、大きな影響として残るだろう。中国が大国として利己主義をどう克服できるか。まさに儒教精神が問われている。中国が大国としての見識と正義を持たない限り、すぐにも行き詰る。アジア経済も同時に、危機を迎える。もう中国の国内事情と言って居られない程の経済的かかわりである。経済は領土を越える。領有権など、会社の所属が異なる程度のことに成る。