芝田山親方の書類送検
芝田山親方、元横綱大ノ国。悲しい事件だ。何か掛け違いがある。自民党の参議院議員でもある、丸山和也弁護士がインタビューで、怖ろしいほどの暴力行為を、親方が行ったと叫んでいた。これだけのことを発言するのだから、確信を持ってのことと見える。勝訴したとしても、印象は実に悪い。私には到底信じがたいことだし。信じたくもない。あの大ノ国がまさかという思いがある。あの優しい大ノ国が殴ったのだから、それでけのことがあると考えたくなる。事件は報道の範囲では、直接の原因は兄弟弟子の間での、金銭の貸し借りでトラブルがあった。日頃の稽古も実が入らず、門限破りや稽古のさぼりがあったようだ。親方の指導か暴力か。ということのようだ。法的には指導でも暴力は許される訳でもないが。部屋で最初に関取になった力士が、幕下で低迷していて、鬱屈していたことは想像される。こんなことが、訴えられるようでは、相撲部屋は成立しない。
「大相撲は日本人力士に限定したほうがいい。」もう、そういう状況ではないか。国際化と言っても、通じないことは通じやしない。今在籍している力士を最後に、今後は日本人に限定する。それの方が国技を名乗るに、ふさわしいことでもある。その上で入門の際の誓約書を取る。覚悟が無ければ入門をさせない。大相撲は芸能である。同時に、神前に備える伝統文化でもある。今の相撲界は、日本の相撲精神とは、異質な世界が広がっているのを感じる。「土俵にはお金が埋まっている。」この言葉をどう受け止めるかである。戦後の力士は腹いっぱい食べたいから、相撲取りになった。それこそ暴力に満ちていてたが、親方と弟子の血の通った関係が背景にあった。家族的な愛情が背景に存在した。だからこそ許された、スパルタ教育。そうした厳しい世界を前提として、入門する弟子。覚悟が違う。
論語の世界観でも「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」それでなければ、人間の神髄は、学べない。そうした命を超えたところにある真実。「捨身飼虎」と仏教では言う。師匠に死ねと言われたら、すぐ死ぬ覚悟があるか。禅門ではこういうことが問われる。入門することが一番厳しい。庭詰、旦過詰と簡単には禅堂に入れない。弟子をスカウトして歩く相撲界の親方。これでは甘ったれでだめだ。部屋の経営の為に、外国にまで足を延ばす親方。本末転倒も甚だしい。ラジオにかじりついた栃若時代も矛盾だらけの暴力を聞いてはいた。しかし、根底に求道的な精神が生き残っていたから、当然だとも思った。年々相撲界は大切な精神的世界を失い、興行的な側面だけが上滑りをする。親の心子知らず。単なるいじめの暴力となりさがる。
相撲界は、興行的志向が高まり、固有の異質な価値観が生き残れるところではなくなった。相撲取りにも一般常識が必要。こんなつまらないことばかり言われなければならない大相撲。常識外れで、桁はずれを見せてもらいたいものだ。すでに日本人力士や親方の多くが、俗世間的プロスポーツ選手であり、経営者である。相撲世界の美学が崩れている。原点からやり直さない限り、この不愉快な緩みは、国技どころではない。伝統に戻る以外道は無い。法律では、10日間のけがかもしれないが、指導法での痛手はそれどころではない。今起こっている大相撲パッシングに便乗した、クレーマーのようなものだ。この程度の指導が許されないとするなら、初めから入門しなければいいのだ。