「日韓併合100年」首相談話
植民地謝罪に関する、管総理大臣談話は高く評価したい。内閣の承認があるということで、日本の公式な謝罪ということである。その内容は村山談話を踏襲するということであったが、言葉のトーンは未来志向の積極的な印象が強いものであった。最近普天間問題で、民主党政権には失望が強かったのだが、植民地問題に対する、日本人としての深い反省を示してくれたことは、高く評価をしたい。隣国と仲が悪いということほど、不幸なことはない。この談話を自民党谷垣氏は、見当違いの批判をしていた。後ろ向きだというのだ。日本語が良く分からないのだろうか。これほど前向きな未来志向な総理大臣談話は初めてである。村山談話と比べて見ればわかるだろう。韓国に対し、過去を謝罪するということが、後ろ向きであると感じるのは、韓国と向き合おうとしないからである。正面から向き合うためには何度謝罪したとしても、許されないほど韓国の尊厳を傷つけたのだ。
多くの人が、一斉に管談話を批判した。一通り読んでみたが、正しい根拠があると思われる意見には出会わなかった。日本国が謝罪をするということだけで、いきり立っている。国のことになるとこのような感情的な反応になりがちである。それは韓国も同じで、日本に対する屈辱を忘れ難いのは、当然のことである。いくら謝っても許されないことをしてしまったのだ。従軍慰安婦問題。強制徴用問題。消えない過去を正しく認識し、その問題をこころより謝罪してこそ、未来に対し信頼し合える関係が生まれる。日本人はいま韓国人及び韓国に対し、ずいぶんと認識を改め、素晴らしい民族として認め始めている。日本が明治政府に始まる、富国強兵、脱亜入欧のなかで、アジアの隣国を蔑むような、教育や報道が必要に行われた。そのために多くの日本人が、長い間、屈折した優越感を抱いてしまった。これは先進国朝鮮中国から学んだ長い歴史的コンプレックスの裏返しだったのではないか。
狭い意味での日本民族の優秀性を強調するあまり、近隣諸国を根拠なく自分より低く見ようとした。そして、いつの間にか先進欧米諸国の一員になったつもりの、卑しい日本人の姿である。鹿鳴館などという、屈辱的な姿勢を欧米には見せる日本人。日本が植民地化されず、必死に欧米的な、産業革命による工業社会を学び、アジア人が劣るものでないことを示そうとしたことは、歴史的限界ということで、やむえないことではあったろう。これが同時に、アジア諸国より一段、上に日本が位置するような錯覚を抱いてしまうことになった。ついには、列強をまねてアジア諸国を植民地化し、指導しなければならないような錯覚を抱く大東亜共栄圏構想である。アジア諸国が欧米諸国に劣る訳もないし、各国歴史的必然を抱えて存在している。そして、現代という場面にいたり、いまや頼もしい隣人として存在している。
アジア諸国と本当の信頼関係を構築してゆくことが出来れば、これほどの安心は無い。それには過去日本が行ったことに対し、心よりの謝罪をすることから始まる。問題は日本人一人ひとりの中にある。韓国、中国の歴史認識、領土問題に対し、強い批判が国内に存在する。保障問題から謝罪することが国益に反するとの主張が多い。なかには植民地などなかったというような意見すら存在する。確かに、歴史を共有認識することは難しい。明治政府の功罪においても、日本国内でも大きく認識が別れる。まして、利害の異なる隣国との関係において、歴史認識が対立して当たり前である。互いに相手の主張を批判ばかりしているのでは解決が出来ない。違いを違いとして認め合いながらも、次の友好関係に進まなければならない。管談話を一つのきっかけにして行かなければならない。