岡本太郎の芸術論
絵を描く上で一番影響を受けた本は岡本太郎氏である。正直岡本太郎氏の作品は評価できないが、その描いた芸術論は核心を突いている。今日の芸術(1954/光文社) 日本再発見ー芸術風土記(1958/新潮社) 沖縄文化論 忘れられた日本 中央公論社版(1961年)美の呪力(1971/新潮社)の4冊には、衝撃を受けた記憶が残っている。たまたま、恵比寿の古本屋を見ていたら、「今日の芸術」があり、思わず買ってしまった。40年ぶりに読んで驚いてしまった。確かに今日の芸術なのだ。今書いているかのようなリアルな内容が、56年前に書かれたものだった。最初に読んだときすでに、書かれてすぐのものではなかったことを気づいてさらに驚いた。読んだ順番は確か逆で、美の呪力から始まったはずだ。アカンサスという、学内の本屋にたまたまあったのを買った記憶がある。その頃の金沢大学の美術部はシュールリアリズム一辺倒だったから、それに対抗する理論武装だったと思う。
今日の芸術を改めて読んでみて、自分の考えたと思ったことが、岡本太郎氏の受け売りにすぎないということが山ほどあること、びっくり。しかも、岡本太郎氏の主張は、今わたしが考えていることより、もっと新鮮で今日的なのだった。こんなに古くならないものがあるだろうか。むしろ新しくなっている。中学生の時漱石を読んだが、古いとは思わなかった。いま読むとずいぶん昔の本だ。それが今日の芸術はまさに今のことが書かれている。それくらい本質だけが書いてある。この光文社の知恵の森文庫版では、横尾忠則氏と赤瀬川源平氏の感想文のようなものが乗っているのだが、こういうのはたしか無かった。先輩世代のバイブルのようなものだったことが分かる。60年安保世代と、70年安保世代の読み方のぶれがある。アバンギャルドを生の芸術として、受け止めた世代と、コンセプチュアルアートの中で読んだ世代の受け止め方の違い。
横尾忠則氏の絵も岡本太郎氏の絵も今日的でない。描くのでなく塗っているもの。看板のように塗りたくるぬるさが私は嫌いだ。アバンギャルドは絵は歯切れが悪い。しかし今日の芸術は、実に切れがいいのでびっくりした。ふすま芸術の全否定だ。生活を満たすような、役割としての芸術の排除。そもそも床の間に飾るようなものと、芸術は少しの関係も無いこと。いまだかつてなかったものを発見し作り出すことが、芸術であること。日本人である自分の芸術という、概念を模索するうえでは、その日本人として根底に持つ、何ものかと向かい合うしかない。そういう泥沼に落ちた。つまり、新しいものを切り開こうとして、原点であるべき過去に遡ることになる。いずれ、金沢では評価されていた日展芸術のようなものに、少しも関心が向かなかったのは、いま思えばありがたい岡本効果だった。
「うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない。」つまり、出来上がった絵の価値から、描くことの意味の価値へ転換した。これは、私自身のいまやろうとしているそのことになっている。生きることを芸術にすること。生きる事が絵を描くことであり、出来上がった絵など意味が無いこと。岡本太郎氏が過去のものにならないのは、美術界は相変わらず、何の価値も意味もないところに、しがみつこうとしているからにちがいない。西洋かぶれという流行が去ろうとしている。戦後の美術というのは、まるでおかしなものであった。アバンギャルドもコンセプトも今や過去のものになった。最近はあまり見ないのでわからないが、骨董品のような絵を描く人はいまでもたくさんいるのだろう。芸術すべてが消えたような状態まできてみると、縄文、沖縄を主張した、岡本太郎氏の核心がよみがえる。