小沢一郎氏の起訴相当
小沢一郎民主党幹事長の「起訴相当」は検察審査会による全会一致だった。国民から無作為に選ばれた11人が収支報告書虚偽記載事件の不起訴処分を審査し、検察の不起訴判断を間違えとした。素人の判断が、法の専門家たる検察の判断を全員一致で間違えと考えるに到ったのは、何故か。前日の小沢氏の検察審査会に圧力をかけたとも取られる記者会見が、逆作用になったのか。11回に及ぶ審議をしたというから、それなりの結論であったのであろう。今までも公権力がかかわりのある犯罪などでは、検察の判断が偏向的であると言う事はあった。確かに、検察審査会で検察の判断の正否を、チェックする必要はある。しかし、全員一致となるものだろうか。その直前にあった、検察の鳩山氏の国民目線では不自然とのただし書き発言。あえて言えば、オウム真理教を名指しした、警視総監狙撃事件。繰り返される冤罪事件。司法そのものを揺るがす、状況が生れている。
そもそも司法権とは何か。考えてみる必要がある。裁判員制度が司法権そのものを崩し始めては居ないか。本来人が人を裁くと言う事は、出来ない事である。しかし、社会を維持するためには、充分には出来ないながらもやらなければならないのが、裁判である。だから、国民は司法制度を育て上げる、側面から尊重する精神がなければならない。それだけの尊厳を司法に与えなければならない。ところが、司法は自らその重い責任を投げ出してしまった。裁判員制度とはそういう馬鹿げた制度である。司法が権威として存在するのでなければ、法律に照らし合わせることなど六法全書で調べればいいことになる。それこそコンピューターに入力する事が、一番公正である可能性すらある。司法が人間的であれというのではない。国民がこぞって司法の尊厳を作り上げる尊敬の念が必要であり、司法に関わるものはそれに相応しい、人間でなければならない。
「お前に言われたくない。」「機械に判断されたくない。」罪を償うと言う事は更正の道と言う側面がある。更正の可能性が無い事例という判断が、死刑である。罪を償うには、神のような存在の判断が何より望ましい。しかし、現実は人間が判断せざる得ない。そこに司法権を別扱いのものとして尊重したのだろう。ところが、総理大臣の知らなかったで済まされた、莫大な生前贈与。そして、霞ヶ関の不動産王とまで言われる小沢氏の、政治資金による不動産投資にまつわる、不正献金疑惑。いずれも犯罪にならない可能性が高い。しかし、許しがたい行為である。法律はそんなものかという、司法の権威を揺るがしかねない事件である。だからと言って、踏ん張らなければならないのは、司法である。ソクラテスではないが、悪法も法なり。
結局、民主主義の問題である。国民には選挙権がある。最高裁判所裁判官の審査が出来る。ここで判断を示せばいいのである。国民の成熟度が問われる。民主党は確かにひどい。まさかこれほどか、というほどひどい、しかし、あの自民党よりはさすがにまし。私はそう判断している。民主党のひどさも、それに輪をかけた自民党の野党としてのテイタラクも、国民のレベルである。そのひどい各政党に依頼するほかない。小選挙区制に直して、2大政党になるはずが、到底そうは行かない状況である。小沢氏はいくらでも国民が納得するまで、説明すると言い逃れたままである。この点が一番いけない。確かに分かりにくい事件である。検察が調べて起訴できないのであるから、一切潔白が証明された。という小沢弁明は間違っている。検察は裁判で有罪にするだけの証拠がないと判断しただけだ。政治家はそれではすまないことを、思い知る事になるだろう。