春闘のヒビキ
「春闘」何か違う感じがするのだ。微妙な響きの違いがある。労働者が労働力を売るわけだから、高く売るために戦うのは、当然の権利である。しかし、労働者という言葉と裏腹に、何か労働貴族といわれるような、生活権とはかけ離れた要求で、共感が持てないものがある。春闘はイメージとしてある労働者の埒外に存在している。公労協などと言っても、700万円もの年収の高給取り労働者が、賃上げでストライキした所で、共感の持ちようが無い。春闘には表れてこない、その他大勢の方にこそ問題がある。最低賃金が上がろうが、定期昇給がどうなろうが、関係ない多くの労働者が居て、政治の枠からすら落ちこぼれているような、実態が広がっている。さらに臨時雇用だろうが、非正規雇用だろうが、働けるなら何でも増しだという、自営業者が実に沢山存在する。職人や農民がそうである。
民主党国会議員35人が11億円。労働組合が、民主党の議員に莫大な金を上納している現実。政治を金で買っているようにも見える。1000円づつ出せば、1万円の昇給がある。とでも言うしかないような、教員組合の献金。報道関係にも労組があるのだろう。春闘は話題にするが、大多数のそれどころではない、建設関係者などの状況は無視されている。仕事がない。借金が返せない。縮小する。転業する。倒産する。珍しい事ではなくなっている。建前と本音のような、最低賃金の規定。最低賃金が出せる仕事がない。暮らせないのは、地方の農業者。補助金をもらって、最低賃金の補填をするような矛盾だらけの農事法人。補助金漬けの農家の農産物と価格比較される、大多数の普通の農家。農業者だって労働者であるだろうに、どこで春闘をすればいいのだろう。農協だろうか。私も組合員ではあるが、どうも違うようだ。
不時着地点の発見である。不時着地点はどうも労働組合的な発想の先には、なかったようだ。結局は資本主義経済の中で、労働力をいかに高く売るか、それを権利として仲間だけが良い目を見るだけの方向。当然企業業績が悪くなれば、賃上げより雇用の補償。競争原理の中での自己保身。弱い者、非正規雇用の救済など、よそ事である。労働者としての連帯意識などかけらもない。自分の定期昇給が確保されるなら、非正規雇用など目を瞑る体質。何か労働組合というものが、理念からかけ離れたものになっていないか。神奈川県職の労組では、「公務職場に馴染まない!」評価の賃金連動制度反対をやっている。公務員に何故評価が馴染まないのかがわからない。直接質問した事がある。農業分野で最低賃金で雇用できない現状をどう考えるかである。農業者は資産家であるというような、宇宙的回答であった。
社会主義国家だったはずの、中国の状況を見れば、労働者という枠は形式的な枠でしかなかった事がわかる。不時着地点はそこではなかったようだ。暮すと言う事の必要充分はどこにあるのか。人間の幸せ感というものは、賃金とは別物だ。嫌な労働を無理にさせられるのだから、賃金は対価として、できるだけ多くもらおう。この発想がおかしいようだ。嫌な仕事などない社会にすべきだ。誰もがやりたい仕事をして、暮らせる社会。それが自給的生活だと考えている。食糧の自給は一日1時間働けば可能。食べ物さえあれば、嫌な仕事までしなくても何とかなるのではないか。農業を行うなら、有機農業で生産性が少々悪くても、永続的な展望が持てて、気分が良い。こう言う縮小的選択が可能になる。幸せ感は収入とは別にこういうところにあるのではないだろうか。いまさら春闘でもなかろうに。