植木鉢作り

   

20人ほどで、植木鉢作りが行われた。みぞれ雪が降り続いていた一日だったが、充実した暖かい日だったと言っても良い。野焼きを来月行うので、その形作りである。一人2キロの野焼き用粘土で好きな形を作った。石楠花の家で行う予定で、薪ストーブまで用意したのだが、朝になってこの天気では、とても無理だと言う事がわかった。急遽床暖房のある、猫の遊び場を借りた。猫は大勢にビビッてしまって、隠れて出てこなかった。天井は全て透明で、みぞれが降っていても明るい。タイルの床はほんのり暖かかで、制作に没頭できた一日だった。何という鉢だか名前は知らなかったが、マスデバリアを植える鉢を作りたいと思っていた。作っていたら、その名前はストロベリーポットということを教わった。確かにそういうものが売られているが、あれとは一つ違う所がある。

中央が壺になってる。壺の周辺には出窓のベランダのような、マスデが植えられる小さな鉢が4つ付いている。水を入れると素焼き鉢だから、その水はにじみ出て蒸散する。その気化熱で、いくらかでも夏の暑さが凌げるだろうと言う、アイデアである。マスデバリアの原産地は南米の高原地帯。イメージとしてギアナ高地のようなところだ。花形は独特で、インカのイメージを誘う。と言っても形はガテマラの民芸のようなものが頭にあった。以前、蘭友会の蘭展でみたガテマラの女性が篭を抱いている、古い民芸品の土偶。その花篭に植え込まれた小さな蘭が見事だった。実は地肌としては、三島をイメージして、すり鉢の側面を使おうと考えていた。ところがこのすり鉢が、どうしても見つからない。仕方がないので、表面を土偶のようにする事した。いつの間にか、どんどん縄文の土偶のイメージに変わっている。先日の土偶展が色濃くなるのは、圧倒的なイメージが張り付いているからで、ありがたい。それならそれで行こうと製作途中で方向転換をした。小さな苔を植えることにした。苔が張り付いた感じである。

絵を描いているときには方向転換は無いのだが、手を動かしている内に頭よりも、手の方が勝手に移動して行くような感じで、それはそれで面白い。途中で、鶏のエサをやりに行く時間になったので、そこで、一次作業は終わりにした。後は乾いてから、彫刻刀で削りだしを行う予定である。エサをやっている間に、古典落語の「頭山」を思い出した。頭で花見。2作目として、これを作りたくなった。最後の5時まで作っていたが、完成までは行かなかった。今日これから続けてやってみる予定だ。こちらは本当に植え込むものではなく。鉢カバーのような使い方になる。バラはどうだろうか。バラの髪飾りのような。頭山である。どうしても桜の花が咲いている所が浮かんでくる。最後には自分の頭の池に身投げをするという、奇想天外な話である。江戸時代のシュールリアリズム。そもそも壺という物は、そういうシュールな所があると思う。壺に手を入れると言うのは、どこか恐いものである。

楽しくできたのは大勢でわいわいと、制作させてもらえたお陰である。制作という作業は一人でやると、ちょっと深刻になりすぎる。大勢で写生に行って、思わぬ絵が描ける。案外自分に無いものが出てくる。これは、そこに現れる空気。脳波が反応すると言うのか。集団の念に支配されると言うのか。その昔、春日部洋先生と絵を描きに行くと、自分を超えた絵が描けたのと似ている。自分を越えるというためには、一人でやっているだけではだめなものだ。常に開いいること。開いて何でも受け入れる気持ち。3月13日には四号古墳のまごのりさんの圃場に作る野焼き窯で、焼成する。これが又楽しみだ。いわこしさんが窯を考えてくれているらしいので、野焼きも、もう一段と進化しそうだ。

 - あしがら農の会