産まれた家
生れた家に久し振りに出かけた。山梨県東八代郡境川村藤垈向昌院。故郷らしきものがあるとすれば、このお寺と周りの山や川である。もちろん育ててくれた、祖父や祖母がふるさとでもある。自分の今を考えてみると、このおばあさんとおじいさんに随分のものを、教えられていたことが分かる。数えてみれば今の私と同じような歳だったのである。いや、少し若いぐらいだ。厳しかったおじいさんを思うとき、よくあれほど厳しく接する事ができたのかに、感動する。同時にまるで孫と同じような目線だった、おばあさんにも、感動する。ありがたいことだ。変わっていないのは、金比羅山の形ぐらいだ。何もかも変わってしまい、別の所に来たような感じで、今回もたどり着くまでが大変だった。これほど変わった田舎と言うのも、珍しいかもしれない。公共事業と杉檜の造林。水清きふるさとの川は、いまや3面張りの水なし川。
お寺の山門に立つと、向かいに広がる坊が峯のおわんを伏せたような姿は、全てが畑だったはずだ。今は茂みの上にテレビ塔が何本も立っている。サツマを植えに行った記憶がある。戦中から戦後に開墾した畑のはずだ。リヤカーに水を積んで、坊が峯の小さな畑まで行った。傾斜地のままの細長い畑だった。幸い道からは傍で、丁寧に水遣りをした。そのサツマの草取り、収穫と、3キロは距離のある畑まで歩いた。暑い夏は水がなく、喉が渇いて困った記憶がある。今はああやって開墾した畑の全てが、荒地となった。北側には競輪の施設や高速道路が出来ている。あの辺りを思い出すと、小さな窪地が在り沼地のようになっていた馬の墓地と呼ばれていた場所である。その恐ろしさを我慢して、強がりながら粘土を取りに行く場所であった。炭焼き窯の補強などに使ったはずだ。いたるところを畑にして、食糧増産して、そしてそれが又山に戻ってしまった。
徒労に終わった悲しみ。こういうものを日本中の中山間地ではかかえているのだろう。そして、公共事業に依存した、生計。道路ばかり増えて、もう道路の上に道路を作る以外ないほどになって、高速道路リニアモーターカー。不幸中の幸いと言うか、ダムになる地形ではなかった。水害が続いて、堰堤工事と3面張りである。山が荒れてしまったから、水害もいよいよ起こるはずだ。お寺の水源は流されてしまったようだ。お寺の水源は500年以上の歳月コンコンと沸いていたものだ。だからここにお寺が建てられた。それは自然に対する畏敬の念、信仰につながる思いが篭っていた筈だ。ご先祖様に見守られる安心感。安定感。そうした伝統的暮らしの心情が、あっという間に消え去ってしまった。方角を誤ったのではないか。最初は僅かな方向の違い。やむ得なかったような貧しさが背景にある。アメリカに戦争で負け、アメリカと言う幻想の物欲に、もう一度負けた。
ほぼ一人でやる養鶏になって、4ヶ月が経過した。だいぶ手伝ってもらってはいるが、私としては一人力で大変になった。労働が増える変更に自分が耐えられるか相当心配であったが、何とか大丈夫なようだ。楽に流れると言う事がある。一度楽をしてしまうと、前の大変だった事に戻れなくなるものだ。日本人がこれから、生活レベルを下げて、肉体労働を厭わず、やっていけるかどうか心配だ。この覚悟はせざる得ないものである。この現実を認められるかどうか。3K職場は外国人労働者と言うような、不自然なことではなくやれるのかどうか。祖父は良く働く人であった。ところが、おばあさんは働かない人であった。節句働きだけの人だった。だけどこのおばあさんほど、素晴しい人間は少ない。私もあのおばあさんのように、暮らしたいと思いながら、残念ながら祖父に刷り込まれたもののほうが、勝っているようだ。