欠ノ上の田んぼ

   

欠ノ上の田んぼの申し込みは現在13家族になった。10家族程度と言う事だったので、既にオーバーしている所である。あと数名の募集で締め切るので、是非と考えている人は、早急に申し込んでいただきたい。申し込みの正式な開始が10月27日だから、あっという間の事だ。と言っても具体的な話し合いを持ったわけではないので、もう少しメンバー調整が必要だと考えている。農の会の田んぼは農家以上に手をかける稲作になっている。種蒔きから籾摺りまで、全部自分たちで行う。年10回の活動日には大半は参加する。これはできる限り実行してほしい。といっても、忙しい生活の中、田んぼを行うのでなかなか難しい現実はある。そこで、いくつかの田んぼで、連携をしているので、田植えでも、日をづらして3回程度は行われる。このどこかには参加をするようにお願いしている。ころがしや畦の草刈などは、それぞれがやれる時にやると言う事にしている。

それでも、本当の農家の仕事をそのままに、場合によっては今時ないほどにやっているので、それなりの覚悟は居る。これは、舟原田んぼの事であって、田んぼごとに考え方が全く違うので、何とも言えない。この考えが違うと言う所が、とても農の会のいい所で、多いに主張したいところだ。もちろん農法は田んぼごとに違う。全てを手作業と言う所もあれば、かなりのウエートで機械化するというところもある。そう言う事が、勝手にやれる空気がとても珍しいし、大切にしたいところだ。何とか農法で凝り固まる。〇〇原理で徹底する。自然と対面する農業はそんなに狭いものではないと思う。そういう、自然という物を一人一人が体感するために農業をやっているのである。自分の目で見ると言う事を大切にしていたら、自然が同じに見えるわけがない。この自分らしい感じ方、見方を育てるために農業に接するのだと考えたい。

市民が農業をする。自給する。このことは新しい暮らしのあり方を探る事だと思う。自給をしたいという人に、自給の場を提供する。自給の技術を伝える。これが方角である。自給は、食に始まり、家作り、エネルギー、教育と全てにつながってゆく。この見直しをするための第一歩が、あしがら農の会の市民農だと思っている。観念では何も変わらない。あれこれ頭で結論を出しても、身体が知る事の100分の1にもならない。田んぼの泥の中をくたくたになって、田植えをする。このことが伝えてくれる事がとても大きい。と言って、農業だけを行えと言うのではない。農業はあくまで自給の範囲が良い。週1日、農業に働けば自給はできる。アマチヤリズムである。これはその昔、金沢大学美術部で、部長のHさんから学んだ事だ。アマチヤこそ、本当の芸術活動が出来る。

農業もそれを職業にしたら、おかしなことが起こる。これが日本の現実である。世界の農産物に競争しろと言う事になる。競争できないような農産物を作っている人間は、劣った農業者と言う事になる。お米を30ヘクタールくらいは作って、生産費は徹底して削減して、それでも通貨変動があれば、一辺で立ち行かない農業である。それを劣ったもの扱いする国。そもそも、農業を工業と同列に考えようと言う事が、間違っている。間違っているが、日本は工業国として、その間違いを認めるわけには行かなくなっている。又、この話になってしまったが、そんなこととも、それぞれが田んぼで感じる事の大きさの前には、さしたる意味がない。人間が生れて、死ぬ。それだけである。その前では、何が大切かは自分が決めることだろう。欠ノ上で新しい田んぼが始まる。全くの未知数である。新しいメンバーのそれぞれが作り出す田んぼである。

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