ブログの連携
ブログを始めたきっかけは、「ピースカフェあしがら」の活動を踏まえてである。ピースカフェあしがらは、イラク派兵反対運動にあった。毎月、A3裏表のビラを作って、あらゆる所で配布した。当初から時限的に始めたもので、予定より少し伸びたが、予定通り終わりにした。紙による活動では参加者の意見も、短いものになる。短く判りやすく書く事も大切だが、充分議論を尽くせるような方法も必要と言う事で、ブログでの連携が提案された。ピースカフェでは常連と言う仲間作りをした。会員とか、メンバーでなく、良く立ち寄る人を「常連」と言う形で形成した。その常連の10名ほどが、ブログを始める。そして、毎月17日には共通テーマをもうけて、そのテーマについて書く。そして互いに連携して、一つの主張の塊を作る。その主張は、個別のものである。独立性を持ちながら、連携から、連帯を表す。こう言う構想であった。
上手く行ったかというと、残念ながらだめだった。連携というゆるやかな形が、難しい。これを維持することは今の所できていない。まだあきらめたわけではないが、難しい。なかなか会うこともない関係で、連携を組むのは、結構難しいものだ。一人ひとりの行動も、思想も変化する。変化した距離がつかめなくなる。多分、個々人の自立と連帯が問題なのであろう。「連帯を求めて孤立を怖れず。」ブログと言う形式での表明は、70年当時なしえなかった形を、具現しうる手法と考えている。個が個として自立し、連帯する。何の制約もない連帯。常に連帯を求めるが、個の自立は保証されていく。火炎瓶のなしえなかった現状打破に、ブログには可能性がある。などと書くと、まるで空論である。空論ではあるが、その空論に期待している。それは、アクリル絵具の登場で、絵画芸術の場面が変わると信じて、油彩画を捨てた時に似ている。
絵を描くと言う事は、芸術活動のなかでも極めて、個別的なものである。一人で描いて完結してしまう手法である。他人が関与する必要がほとんどない。見るものがいつか、どこかに居る。この辺の無意識下の期待と言うような、曖昧なものに支えられている。これがある種の連帯意識と言っていいのかどうか。絵も描くが、見ないという人が居る。他人がどうでも良い人、と言っていいのかどうかは微妙である。見れないという人も居るし、必要としないと思い込んでいる人もいる。たぶん、傲慢なのであろう。たぶん、弱い人なのだろう。絵を書くことは、ひとりでは出来ないと考えたのは、学生の頃である。共同制作に何度か挑戦した。同時に一枚の絵を描くと言う方法と、描き次ぐと言う方法を試みた。絵画における連帯と言う事を考えていた。そのことは、とても自分の力になった。自分を育ててくれた。絵を描くと言う事の意味を、共同制作から知ったと思う。
じつは、ブログは絵を描くと言う事に極めて近い。自分の中では、心理状態として同じようなものだ。この一本の線をどのように入れるか。正しいのか、間違っているのか。どうでもいいのか、意味があるのか。この文章自体が、何であるのかと、ほとんど一緒なのだ。だからこそ、ブログでの連帯を求めたのは必然である。ブログには、コメントと言う窓がある。これほどありがたいものはないと思っている。孤立した心に、明かりがともったり、グサット槍が刺さったり、連帯を求めている「窓」。絵も同じである。あれこれの思いを画面に表現しただけでは、絵は出来上がっていない。実は絵は心の窓である。外に開いた時、初めて心の中でも完成する。表現すると言う事は、自問する心にとっても大切なこと。表現することは痛いことであり、辛い事である。しかし、それが連帯を求めると言う事なのだろう。