戸別所得保障制度の不透明

   

今年の稲作も終わろうとしている。作況指数はやや不良だとか、平年並みとか言われているが。きっと美味しいお米は少ないのではなかろうかと感じている。いずれにしろお米は余る。余るというのは日本という地域で見たときのことで、日本のお米が極端に高いから、高いお米が余ると言う事になる。世界では食べる物がない所はいくらでもある。米作農家の時給を計算すると、189円だそうだ。農水省がそう言っている。民主党に成ると、最低賃金は時給1000円にしてくれるというのだが、811円は誰が農家にくれるのだろう。戸別所得保障制度というのは、そういう意味だろうか。この制度相変わらず不透明である。時給1000円では手の足りない農家が作業委託するとき、いよいよ大変なことになる。日本全体の構造が、手のつけようがないほど格差が広がっている。稲作はその底辺に位置する産業になっている。

大きく成るとわからなくなるが、舟原というような規模の集落で田んぼはどういうものか。こういうところから考えてみる必要があるだろう。江戸時代でも今より広い田んぼが耕作されていた形跡がある。その分だけ舟原に人が住んでいたのだと思う。食糧を出荷するような地域ではなかったと思う。いわゆる里地里山地域で、山仕事が生活の基盤であったと思われる。炭、薪を大都会江戸に出荷する。かまど石の出荷。薪炭材だけでなく、建築材も生産していただろう。生産現場に一番近いターミナル的機能も持った集落であったろう。最初に人が住み始める場所。田んぼはその人口を支える、暮らしの構造まで決めていた基幹産業。田んぼは小作するというより、小さく自立的農家ごとに、1反程度を分散的に耕作していた。自作、小作、はあるにしてもたんぼを耕作できると言う事が、地域で一家をなしてゆく基本であったようだ。人口も田んぼの面積以上にも増えることは出来ない。400年前には溜池が作られているくらいだから、新田開発はすぐ限界に達していた。

田んぼを中心に全てが回るように出来ていた。米で給与が払われるような時代だ。水という物がものの流れを作り出す。薪炭を安定的に供給するための山林管理。それは河川管理でもあり、環境整備である。水車が5基あったという集落であるから、河川の管理は重大な事であったろう。田んぼというのは調整池であった。山に杉檜だけを植林して、水管理にダムを作る。ダムを作らない変わりに、田んぼに出来る場所はいたるところに田んぼを作ってゆく。ここで暮らしを完結せざる得ないとしたら、生産コストはあらゆる暮らしの隅々まで関連して行く。畳み、むしろ、草鞋から、蓑。お米がいくらであるか。こう言う事とは別の次元の事のように、田んぼは存在した。いまだって、農家の暮らしは実は他産業に依存して成立している。だから、米作農家に戸別に保障すると言う事は、実は矛盾を増幅する事になる。

分業化が進み、暮らしも切断された形で営まれる。経済が外国に対する輸出でどんどん拡大される中では、田んぼの矛盾は189円と1000円まで広がりながらも、出稼ぎ、兼業農家と、吸収されてきた。1000円の時給を守るために、企業はのりを超えた怖ろしい事までやってきたのだろう。CO2の問題だって、そう言う事だろう。これがもう通用しないと成ると、189円で暮してゆくと言う事になる。この原点から、日本の農家をどうするかを決めないと、戸別補償などできるわけがない。いいじゃないか。月5万円の暮らしである。これが日本という国土の妥当な線なのだろう。この線を覚悟すれば何も恐くない。こんな時代がまだまだ続く訳だから、徐々に人口も減るだろう。そうすれば、月10万円ぐらいまでは可能な国土であろう。人口は8000万人まで。まだまだ多すぎる。本当の少子化対策である。

昨日の時給作業:蜜柑摘み3時間 累計時間:3時間

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