田んぼの再生

   

舟原から1キロほど下った辺りが、欠の上の集落である。集落の南側に下りたところに久野川が流れている。その久野川へ下ってゆく2ヘクタールほどの斜面に耕作地が広がっている。以前は全ての耕作地が段々の田んぼだったのだろう。いわゆる谷に広がる谷戸田である。一段上の集落は、河岸段丘に乗ったように、諏訪の原の台地まで続いている。こちにも田んぼはあったはずだ。いずれ、久野川の舟原から、欠の上間に、江戸期の初めには既に三つの溜池が存在した。それは欠の上に広がっていただろう4ヘクタールはあったろう田んぼのためである。今も水田として残るのは、全てをあわせても5反ほどだろう。多くの田んぼがミカンに変わった。そしてミカンの値が下がって、熱心には作られなかくなった。それで、縞模様に流れていた水路も、今はほとんど使われなくなっている。

久野の里地里山ではここの農地を田んぼとして、再生することになった。実際に耕作するのは、あしがら農の会である。新しく仲間を募集して、田んぼグループを新たに始める。又、県の事業として、農業体験事業などもある時、利用できる田んぼとなる。小田原有機の里作り協議会の事業として、取り上げてもらいたいとも考えている。水田に戻すのが、4反ほどである。1反が栗と柿が作られている。栗と柿の所は、そのまま農の会で管理させてもらう予定である。まず、一番の仕事は2反5畝のミカン畑の整理である。ミカンを全て取り払い、チップ化して積んでおくことになっている。その仕事は菊原建設という、板橋の建設会社がやってくれることになった。初めて顔を合わせたのだが、農地の事に詳しい人で、蜜柑の片付けもやったことがあるそうだ。たんぼの事も話すと、大体の事が繋がるので、ホッとした。

昔は多くの水路が、道の脇を流れていたために、久野川の河岸の工事の為に車両を入れるために暗渠化されている。この水路の再生も行わなければ、田んぼにはならない。地主さんから、説明を聞いて工事の進め方を調整したのだが、翌朝、上で田んぼをされている、瀬戸さんから電話があった。どうも水路を取り違えているようだ。慌てて、現地で色々教えていただいた。つまり地主さんが説明してくれたのだが、その方がお嫁に来たという、多分40年前にはすでに蜜柑になっていて、実際には田んぼはやっていなかったらしい。だから、水路については、良くご存じなかったのである。川から直接水を入れるようになっていた。水管理が独自に出来て、短くてありがたい。この水路はもう一軒の2反の田んぼと共用になる。こうして久野川から水を採る訳だが、久野川の清流を守ると言う事が、田んぼをやることで現実になる。私の家から流れ出る排水も、結局田んぼに入る事になるのだ。

昔の普通の農家の暮らしは、循環を守る暮らしであった。どの家も田んぼをやりながら暮す。1反の田んぼがあれば、1軒の昔の大家族が暮せる。田んぼを守る事が、暮らしを守る事であり。山を守り、川を守る事であった。溜池に十分の水を集めるためには、里山を手入れしなければならない。薪を切り出し、落ち葉をかき、必然美しい里地になった。水を汚さないと言う事は、当然の事で、水がなければそこは暮せない場所だった。4ヘクタールの田んぼがあれば、40軒の大家族が暮らしせることになり、人口的には300人はいたと思う。畦には大豆を作り、味噌醤油を作る。裏作には麦をやる。今戸数は倍近くに増えたが、人口的にはさして変わりはないはずである。今からだってやれないことはない。そのことを思うと、今回の田んぼの再生は、不時着地点の整備である。この先、日本は楽は出来ない。普通の暮らしが、普通にできる姿を作り出したい。

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