子供の体力低下
子供の体力が落ちていると、今更ながらのテスト結果が公表された。文部科学省の全国体力テスト。どうしてこんなことまで、全国テストをしないと気が済まないのだろう。調査に費用を掛るまでもなく、誰にも判っていることだ。もし、どうしても調査したいなら、調査した結果を利用して、具体的な方策を展開するぐらいの、先の計画を立ててからやって欲しい。中央教育審議会がスポーツ振興基本計画の見直しを提案した為に、こう言う事になったという。体力とスポーツという安直な連想が、おかしい。むしろ、作業の時間でも授業に入れて、大いに農業をやってもらって、給食ぐらいは自給するようにしたらどうか。さらに家庭が行うことに、国が指図をするなどもっての外である。体力の低下の根本は、暮し方の変化にある。
多くの新規就農者に体力がない。体力不足で諦めざる得ない人が、沢山居る。自然農などと、草を取らない農法に飛びつく半分は、何もしないですめば楽だ。という思い込みがある。実際は自然農ほど、手のかかる体力勝負の農法はない訳で、そこで挫折する人はごまんと居る。近代農法は省力のための農法だ。体力がなくなったのは、暮らしの中で、体力が必要とされないからだ。会社や大学の試験に体力テストがあれば、すぐスポーツ振興になる。学問や社会では体力が基本だ。頭脳以上に体力が大事だ、と言う現実があるなら、そうなる。実際の所そんなことは考えても居ないのが、今の社会だろう。以前、自衛官の1500メートル走の平均タイムが、6分を超えていたのでまったく驚いたことがある。今はどうなのであろう。軍人でも体力は要らない時代かもしれない。インターハイの優勝タイムは3分台である。私は体力こそ必要だと思って、陸上部に入りひたすら走った。頭脳を鍛えるより、体を鍛える方が意味があると思ったのだ。
健康志向的なスポーツは大嫌いだ。スポーツをするなら、それを目的とすべきだし。体力不足解消にスポーツ振興。こう言う発想は人間の精神に良くない。定年帰農と言う事が一時言われた。団塊世代が退職期に入り、帰農するという提案であった。退職してから農業をやるなら、農と考えないほうがいい。園芸ぐらいにしておくべきだ。アーサーミラーの「チェリーブロッサム」を思い出す。私ももうすぐ退職だが、後は楽しもうとは思わない。いよいよ、本音でやってみようと思っている。一時間の草取りを楽しく出来るか、辛いと思うか。体力次第である。急に身体を使えば、腰でも痛めて、負担になるばかりだ。普通の農家なら、もう一線を退く60歳になって、新たに始めるのは、想像を絶するくらい大変なことだ。農家の方が子供の頃からの暮らしで身につけた体力は、まったく別物だと考えなければならない。夕方になってもいささかも疲労していない、農家の方はその体力で、人間国宝のようなものだ。
子供が運動をする環境を作ることが先だ。いまや、私の住む舟原で考えても、子供の遊び場や環境がない。山や川があるだろうといっても、その経験が伝承されていない。そうした子供の集団がない。今思い出して考えれば、子供時代やっていた遊びは今の子供がやれば、すぐに事故になるような危険なものだ。箒草を取る。これは山の中を縦横無尽に歩いて、捜し歩いた。度が過ぎた運動だが、売れたから頑張った。それでもつつがなく行われていたのは、そうした地域の伝統や暮らしが存在したからだ。大人の暮らしを地域から、離脱させてしまった。地域には子供を見守る仕組みがない。思い切って遊ぼうにも子供が安全に遊べる場がない。その結果が体力不足にでているのである。体力テストをやって、観念的なことを幾ら指摘しても仕方がないことである。全ては具体的な方策である。