派遣社員の切捨て
昔ならアルバイト社員とでも言うのだろうか。派遣会社に勤務していて、そこから様々な職場に出向いてゆく。企業には都合がいい労働者の使い方として、定着した。勤める側でも定職につきたくない、仕事はあるのだから、あれこれ適当にやって行きたいと言う、気分的世代の増加をいいことに、新しい雇用方法として定着した。本来派遣社員という言葉の語源から言えば、会社で雇用するには、特殊な技術を持つ人材を、給与は高いが一定期間だけ雇用することを意味したのだろう。例えば、特殊な言語の通訳などである。所が、仕事の先行きの目途は立たないが、当面だけ生産の増強が必要である場合など、労働者を一定期間雇用することが始まる。次の段階では、いつでも首を切れると言う利点だけを重んじて、通常の労働者まで派遣社員で済ませることになった。さらに、単純肉体労働の日雇い労働まで派遣として斡旋することになる。
不景気が始まり、最初に職を失うのが派遣社員であるのは、予想されたとおりである。これをおかしいこととして、報道などは主張している。しかし、これは派遣社員というものを拡大解釈したことがおかしいのであって、解雇がおかしいのではない。企業の社会的な責任と言うものがあるなら、派遣社員中心に労働体制を組むこと自体が反社会的なことだったのだ。職業は、本来それぞれの生き方と直結したもののはずだ。人間として生れ、より良い生き方を求めて就職するのである。それがアルバイターだとか、派遣社員のいい加減の程度が、それぞれの生き方に都合がよいと選択したのであれば、それはいつでも失職することも、覚悟の上のはずである。人生に直面しない制度を作り出したのだ。それでも、派遣を契約解除した企業への批判が高まっている。
派遣制度は規制緩和という小泉政権へのアメリカからの圧力で出来上がった。大資本自身が資本のための利益を追求してゆくためである。戦後の日本型資本主義は企業の成長利益を、労働者に還元してゆく姿勢が存在した。その結果、社会全体に経済的平等が見え始めた。1970年代の私の学生時代は、経済格差の少ない状況が生まれた。70年後半働いて貯めたお金で、フランスに留学し2年半暮した。日本がそのぐらいの、経済状況になっていた。アメリカの資本主義はあくまで資本自身の利益だけを追求するものだ。国家も超えてゆく。それが金融資本主義。労働や生産とは関係なく、投資することで利益を上げる。大学までそんなことに手を染めて、大きな損害を出している。アメリカのサブプライムローンは各国の銀行や企業が、投資先としてアメリカの金融商品化した、低所得者向けの住宅ローンを購入したことになる。アメリカは戦争を継続する資金を、金融商品を販売することでまかなってきた。何か物を生産して利益を得たわけではない。
派遣社員制度を作り、企業利益を第一にしたのは、企業社会全体である。企業の利益がなければ日本の成長も、国民の安定した利益もない。小泉政権がこう主張したのもアメリカの圧力である。企業の社員も自分さえよければいいと、企業と一緒になって派遣社員を受け入れた。これが労働組合の消滅した結果である。社員の自分さえよければと言う、個人的な願望を上手く利用して、企業の利益とは言いながら、金融的に純粋なる資本の利益を追求し始めた。そうした企業の成長が、日本国の経済成長に繋がり、国民各人も潤うと言う幻想が作られた。企業においても、物を生産するより、有利な投資先に投資することの方が、利益を生むという幻想に踊らされるようになる。日本国内の実質経済の停滞にもかかわらず、企業のここ5年の莫大な利益はそうしてもたらされた。その利益は資本には還元されても、一般労働者には少しも還元されない。話は元へ元へとたどってしまったが、一般職種の派遣社員制度を廃止すべきと言う事だ。