市民参加の意味

   

加藤市長が小田原駅の脇の再開発を予定している場所に、ホールを移すと言う事をマニュフェストで公約していた。当選して、さして時間もたたないうちに、元のお城の側にホールを作ることに考えを変えた。こんなに短期間に考えを変えた理由が、良くわからない。市長になって、あれこれ担当職員から事情を聞いてみて、なるほどと言う事があり、意見を変えた。と言う事なんだろう。マニュフェストがその程度のものだったと言う事になる。加えて、こんなにすぐに意見をかえるにしては、市民説明が足りない。説明する場が、今開かれている議会のつもりなのだろうが。しかし、市民参加もマニュフェストに掲げていた市長だ。議会に説明するだけで、直接市民に説明する場を持たないのでは、この問題を済せるわけにはいかない。この経過を見ていると、加藤市長の市民参加とは何かと言う事が気になりだした。この言葉の巾は広く、前小澤市長も市民参加を言われていたが、市民不参加を聞き違えたかと思うほど、市民は遠ざけられていた。

先日市民参加をある課長に聞いてみた。その人によると、市会議員が市民の代表なのだから、市民は議員として既に市政に参加している。こう説明してくれた。相変わらずだ。行政職員としては、要するに市民参加は困る事、少なくとも面倒くさい事なのだ。出来れば市会議員すら居ないほうが。これが本音のようだ。前副市長の市民参加はなんと、パブリックコメントに意見を出すと言う事だった。これは行政の免罪符であって、パブコメで充分とする発想の裏には、市民の処理法しか見えない。選挙で争う時に、市民参加を言わない人は居ないだろう。市民が投票をするのだから、耳当たりがいい。所が、いざ何か事業を取り組む時となると、市民の参加は大体の場合、厄介になるのはわかる。いちいちの説明だけでも大変なことになる。集まれと言ったって集まらない。一人ひとりに説明と言ったって無理な事だ。市民参加と言う事を、いまだやったことがないわけだから、イメージはそれぞれに違う。

お金が不足した分市民に参加させようでは、話が違う。市民が行政の仕事に参加して、良かったという経験を作ることだ。今の市民参加は川掃除の仕事を押し付けられるのが、せいぜいの市民参加の範囲だ。実際の検討や決定から市民が参加すると言う経験が少くないのだ。少ないから、検討相談の方法が出来ていないし、始めようにも糸口から作り出さなければならない。市民参加の検討委員会などというが、そんな程度はお茶を濁しているだけだ。久野の里地里山協議会は、7月に行う約束を行政が果さないでいる。心配していた通り、活動停止してしまった。他の参加者に聞いてみると、無くなったのだろうとあっさりしていた。役所は人が代われば無責任だよ。こう言っていた。里地里山の再生を行政自身で作り出せる力があるなら、お任せもいい。だから、最初の相談から、市民が加わるのでなければ、協力者は現れない。

市民がこれだけの負担の増加を受けるから、その代わりにこうしてくれ。こう言う相談をするのが、先ず始まりではないだろうか。市民参加という意味では、メダカの地域保全の事で、行政と共同で事業を進めてきた。水路や農道の日常管理は行政には出来ない。自然水路はメダカなど生き物にはいいだろうが、管理を市民がどう負担するかにかかっている。市民に管理をお願いするのだから、市民の意見も取り入れ無ければ進まない。慣れないことを始めるには、頭の中を切り変えなければならない。ごみ広域処理問題でも、行政職員が全てを決めてから、パブリックコメントを行うでは、市民参加の芽が育たない。どんなに面倒に見えても、最初の検討段階から、充分な市民参加を促す以外、解決の道はない。今の行政職員にその経験が全くない。そこで、昔来た道に戻ることになる。

昨日の自給作業:草刈、2時間 累計時間:21時間

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