水彩画の制作
大きな紙が広げてある。ロール紙の一番大きなものだ。描くつもりなのは、竹薮のこと。一つの土地が、遷移してゆく姿。紙を広げて、眺めてだけいて、一日が過ぎた。竹やぶの事をあれこれ考えていた。竹薮は目の前にあり、目の中に入ってしまっている。この2年竹薮とかかわったから、だいぶ竹やぶの事がわかってきた。今更、姿かたちを見て何か、という訳でもないのだけど、やはり行って見る。感謝されていた時代があり、人の暮らしと程よい関係があったときもあり、今は邪魔にだけされて。そうなったら、逆襲のように何処までも根を伸ばして。広げた紙にそんなことを、思い描いている。その背景にある、人の暮らしの移りかかわりでもある。遷移。植物が好きだから、そのことを遷移として感じるが、人はどうなんだろうと言う事は、たぶん同じことを思い巡らしているのだと思う。
その竹薮をよく見ると、わずかにミカン畑だったらしい痕跡がある。土地の起伏もいくらか手が入っている。ミカン畑になる前は、麦でも栽培した時代があったのだろうか。例のスイカの産地舟原の重要な畑だったこともあったかもしれない。その前は、どうだろう縄文まで遡れば、栗林でもあったか。この辺りも、水があり、展望があり、海も遠くない。古墳なども沢山あるので、人の手は古くから、様々な形で入ったに違いない。それで今度は私がこの土地をしばらく使わせてもらう訳だ。竹薮になったのも、篠竹から始まっている。これはよく観察すると実に面白いのだが、たぶんこの遷移は、竹の一つの形なのではないか。まず草原に篠竹が来る。ここではそれが西側より始まっている。風上だからか。川上だからか。次に真竹が来る。
一面の篠竹藪に、背丈の高い真竹が入ってくる。徐々に篠竹は日照を奪われて、枯れ始める。真竹は20年以上をかけて、東へ進んでいる。そしてほぼ全域を覆う。所が、ここに孟宗竹が入る。すると真竹も負け始める。こうやって今や日本の竹薮は、徐々に孟宗竹の力に押されている。江戸時代、中国から来て、南の方から始まったことが、関東でもやや押され気味じゃないか。50年前の山梨の藤ぬたでは、何となく孟宗竹は尊重されていた。見たところが立派と言う事もあったが、竹の子の出荷と言う事や、その他の竹の皮やら、使い道があった。それと孟宗の竹やぶのほうが少なかった。語り伝えられていた話として、天狗の「お弟子さん」であった人が、孟宗竹を手で引き抜いて、道を挟んだ反対側にまで植えたので、孟宗の藪が広がった。と言われて、どちらかと言うと感謝される話として伝えられていた。
植物の遷移の姿は草原から、森林へとされているが、竹薮の方向に進んだものには、木は入り込めない。竹を一つの極相と捉えてもいいのかもしれない。そうした全てを描くとすると、どうなるのだろう。絵画というのが素晴しいのは、このある姿を、時間までも含みこんだ姿を、理屈抜きに、直に表現できる所だ。描き始める時は、もう終わっているようなもので、筆を持つ前の含みこみと言うか。どんな色とか、どんな形と言うようなことは、少しも考えないが、自分の世界観が何処まで煮詰まるのかの方に、かかっている。今は描きだしたい気持ちを抑えている。大きな紙を広げて見てはいるが、絵の大きさや、立て構図なのか、横構図なのかも。全く想像もしない。それでも白い紙が広げてあることは、もう絵に踏み込んだとなる。
昨日の自給作業:なし 累計時間:5.5時間