縦構図の研究
このところ、集中して縦構図ばかり描いている。それは普通横にばかり風景を見ているからだ。目が横に2つ並んで居るから、どうしても横構図に物を見ている。縦に画面を区切って、風景を切り取ると言う事は、生理的にはおかしな物なのだと思う。パリ・オランジェリーにあるモネの睡蓮は、人を囲むような楕円形の横長になっている。これが人の目の構図と言う事なのだと思う。とことん目であろうとしたモネらしい、発想だと思う。しかし、絵は少し目とは違うのだと思っている。目で見ている視覚的なものと、絵は異なる物だと思っている。今眼前の庭には、蓮が咲いている。朝日を受けるその耀きは美しい。水面の反映、空の映りこみ、水面から立ち上がる不思議な形の葉の風を受けてのゆらぎ。ちょっと逆説的だが、それは、美しさだけで言えばモネの絵以上である。
ところがその美しさと絵画とは、関係が殆どないと考えている。その美しさも一要素ではあるが、それは醜さも一要素であることと、少しも変わりがない。全ての事象を含みこんだ物が、絵画という表現形式だ。ところが、ややこしい事に、マチスのいう、絵画は安楽椅子である。という考えも当を得ている。つまり、絵画の目的は何かというときに、社会不正の告発という人も居るだろう。それも有りだが、比較的多数の者が、目指す目的は絵画による、人間性の解放。その目的は美という切り口で行われやすいと言う事なのだと思う。絵画が他者に影響するとすれば、それは制作者の哲学なのだと思う。哲学の示し方に、美的な要素が主になり安いというだけなのだろう。だから、醜の方から、迫る人がいても当然の事になる。
それで縦構図で風景を切り取ると言う事は、この美というものが、あくまでも要素であり、切り口であると言う事を自覚できる、方法と思う。改めてその自然美を見直す。何故それを描くのか。この最も原則的であり、いつまでも重要な問題が、縦構図を描こうとする時に現れやすいと、思っている。もちろん私の意識回路の問題で、他の人の事は分からない。縦構図では画面右下から、左上に動流を感じる。この動きに対して、画面中央部に正方形の集中的意識箇所が起こる。当然反対の対角線の動きもあるのだが、目の視覚的偏りからか、片方の対角線が強い力になる。中央の正方形の強い面積からは逆に渦巻状に力が見え安い。この対角線と、中央からの螺旋での外への出方が、どのように兼ねあう事ができるのか。実は、このことを、このところづーとやっていた。
あるときは、分かったような気になるし、又全く見えなくなる。この構造的なあり方が、絵画の重要な要素であることは間違いがない。つまり、この構造的な仕組みに制作者の哲学の構造が反映し、伝わるのではないかと思う。一般に日本の絵画には、この構造的意識がない。つまり、個々人としての意識よりも、全体の意識で、ある意味デザインとして絵画を描く伝統がある。そのため、日本の絵画は、雪舟などの数例を除いて、制作者の哲学が見えにくい。それは絵画の構成がバランスであって、構造でないからだろう。というようなことばかり考えて、縦構図の絵を描き続けている。土球の写真の後ろに何やら映り込んでいるのが、その研究中の絵の一部だ。自分が何をやっているのかよく分かっているわけではないが、ともかく、この辺の事が、一番面白くて、絵を描いている。