楽観に立つ

   


 直ってきたトラックター。福仲先生が直してくれて随分調子が良くなった。その上に田んぼの均しの器具まで探してきてくれた。案外田んぼが平らになる。干川さんがトラックターに神輿も溶接してくれた。これでひっくり返っても命は無事だろう。

 皆さんがのぼたん農園に応援をしてくれている。作業していると、なんとこの神輿にカンムリワシが止まってくれたのだ。カンムリワシだって、のぼたん農園が出来て餌場が増えたのだ。それでずーと来てくれている。良い方向、良い方向が産まれている。

 生きる以上楽しく日々を生きてゆきたい。石垣での日々は実に楽しく、これ以上の暮らしはないだろうと思うほどだ。天国トンボと言われるのも良い。脳天気と蔑まれるのも良い。悲しいことはすぐに忘れて思い出さないようにする。楽しい明日を思いながら、今日を希望に満ちた一日として前向きに生きる。明日はさらに素晴らしい一日に成る。

 世の中は絶望的だ。ほぼ次の世界の可能性は消えかかっている。若い人は、大人を大いに怒って良い。こんな世界にしてしまった責任がある。世界の状態はさらに悪くなるだろうが、もう個々人の力でどうにかなるとも思えない状態になっている。大多数の人がこのままでは世界が崩壊すると言う危機意識を持つ時まで、待つ以外にないのだろう。

 危機意識を持たないまま滅びるのかも知れないが、たぶん人間はそれほどのバカではなかろう。楽観に生きるためにはそんな世界の問題のことなど考えないことにして、自分の生きる道だけを考える以外にない。最近そう考えることにした。

 世界を何とかしようなどと考えたところで、時が至るまでは誰にもどうにもならないことだと考えるようになった。自分とは何かを自覚し、自分らしい日々を送る。時間稼ぎのようなものだ。人類が終わるのかどうかは、個人の力でどうにかなるようなことではない。時代の渦がのたうちまわる。諦めて、つまり明らかにして、自分がいま出来ることをやると言うことになる。

 まず、一人で生き抜くことを考える。楽観に生きる源になる。人間は自分の力で一人で生き抜くことが可能だ。化石燃料など使わないでも、人間は自分の体力だけで、食糧を自給することが出来る。一日食料のために一時間働けば可能だ。後の時間は人のために使おうと、自分の好きなことに使おうと大丈夫だ。

 このことさえ抑えておけば、楽観に生きることが出来る。生きることは難しいことではない。よく生きるとは、自分という存在をはっきりと認識して、自分が望む一日を十二分に暮らすことだ。自分というものを日々やり尽くすと言うことだ。そうできればすがすがしく日々を暮らせる。

 まず、好きなことを見付けると言うことに始まる。私であれば、絵を描くことが好きだ。絵を十分に描けた日は、やり尽くしたという気持ちになれる日だ。それはどういう絵が描けたと言うことでも無く、全力で絵が描けたという日は、喜びの日になる。

 好きなことを探す。好きなことは個々人違うわけだが、やってみなければ好きなのかどうかなど分からないことだ。中学生の頃に絵描きになると決めた。好きなことを探すのが若い時代の仕事だ。そのように父がよく話してくれた。それで、はっきりはしなかったのだが、絵を描くことが好きらしいと言うくらいで、絵を描いてみることにした。やりはじめて絵を描くことの面白さをしった。

 絵を描く以外にも、様々なことをやったのだが、結局絵を描くことと動物を飼うことが残った。最初は絵を描くという面白さはよく分からなかった。叔父が彫刻家だったこともあり、藝術を行うと言うことは大切なことらしいと言うくらいのことだった。

 絵を描くことには終わりがなかった。絵を描くと言うことがどういうことかはまるで分からなかった。上手な絵という物があるのは知っていたが、自分がそういう絵を描けるわけではなかった。中学生でもそういう絵をくだらないと思い、好きでも無かった。一方に、マチスやピカソのような絵画あると言うのも知っていた。

 たまたまボナールの絵を見て、すっかりボナールに取り込まれた。良い絵という物がどういう物かは分からなかったが、ボナールのような絵は好きだと思えた。ボナールのデザイナー的感覚に取り込まれたのだと思う。ボナールのような描き方を真似ていたと思う。思うようには描けずに、絵描きになるためには石膏デッサンという物をやるらしいと言うことで、デッサンをやってみたりした。

 あれこれやるわけだが、上手くゆかないにもかかわらずおもしろいと思い、飽きることが無かった。どうもこれは本当に絵を描くのが好きらしいと言うことを考えるようになっていった。最初は好きらしいぐらいだった物が、絵を描いていられれば、他のことはどうでも良いと、いよいよ思うようになった。

 結局、絵ばかり描いている生活を送ることになった。絵描きでは生活は出来なかったが、何とか他のことで生活は出来た。学校で美術を教えていたこともあったが、絵を教える仕事はやりたくなかった。もう一つの好きだった動物を飼うと言うことを生かして、自然養鶏をやることで生計を立てることが出来た。

 食糧の自給をしていたので、収入は少なくても何とか生きてくることは出来たことになる。好きなこと、好きなことを探して、やっていたら何とかなる。好きなことならどれほどやっても、楽しくてたまらないから、絵や養鶏の仕事をしたというような感じはない。遊び暮らしていたら今になったわけだ。

 自給農業をやっている内に、田んぼも好きになり、今も熱中している。石垣での自給のイネ作りの農法を見付けている。イネ作りが好きと言うより、イネ作りの探求がおもしろいという状態だろう。小田原でのイネ作りは年一回の試みだったのだが、石垣のイネ作りは年3回ぐらい試みが出来る。先のあまりないものには実に有り難い。今年一年でひこばえ農法のことがかなり見えてきた。

 毎日、のぼたん農園に行く。絵を描いている。昼寝もよくしている。そして、人が来たら話をして、一緒に田んぼをやる。一日5枚も描ける日もあれば、1枚も描けない日もある。それでも絵はすこしづつ動いている気がする。自分が描いたと言われても良いような絵に、本当にわずかづつだが向かっている。

 もう少しすれば、石垣のイネ作りも見えてくるだろう。ひこばえ農法も見つかるはずだ。笹村出の絵も現われてくるような気がしている。それほど楽観的なのだ。希望を持って今日も一日絵を描くぞと思っている。このままもう少し長生きすれば、自分の命がある間に、何かしらの所に行き着けると思っている。

 課題があり、それに意欲的に向かうことが出来る。ありがたい状況だと思う。石垣に来るときには考えても居なかったことだが、やはり石垣でも田んぼをやる暮らしがやりたかったのかも知れない。様々な人との出会いがあり、それに逆らわずに進んできたら、石垣島で田んぼをやり、絵を描いている。

 これ以上の幸運は考えられないほどだ。日々の流れに逆らわず、何とかなると暮らしている。明日の方が素晴らしいに違いない。そう考えて絵を描き、田んぼをやっていたら、こんな理想的な暮らしにたどり着いた。自分に至るにはあと20年ほどの時間は必要だと思う。それも何とかなりそうだと楽観している。

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