神はAIに姿を変える

   



 人間が生き抜くためには何か頼る物が必要である。私の場合絵に頼っているのだろう。絵を描いている自分に安心を得ようとしている気がする。絵を描くと言うことを自分の人生の目的にしている。自分の絵を描くという事ができれば、自分の人生は良かったのだと思おうとしている。

 日々生きると言うことは不安に満ちている。この不安を取り除き、安心して安定して生きると言うことは、容易なことではない。特に世界は不安定化している。ロシアの侵略戦争が続いている。日本も軍事力で対向する方向に動き出している。間違った方向に国は進もうとしている。何も出来ない。

 社会では耐えがたいようなことが毎日起きている。朝ニュースを読むといたたまれないような事件がない日はない。明日は我が身に降りかかる災難のような気がしてどこか不安になる。拝金主義が蔓延している。能力主義が限界を超えている。このままでは社会は崩壊するとしか思えない

 安心立命するためにはなにか寄りかかれる物が必要になる。私は絵を描くことに寄りかかっているのだろう。絵という物の価値に、良い絵を描く私という物に依存しようとしているわけではない。これはゴッホの行き詰まりである。描くという行為に意味をを見いだそうとしている。 
 
 AIが登場した。AIは神になるのではないかと思う。AIは後数年で普通の人間の能力を超える。その後人の脳の能力をはるかにけるようになるだろう。能力主義である以上、AIのほうが人間よりも尊重されるようになる。AIが正しい判断を下してくれる。分からないことを教えてくれる。人間は行き詰まったときに、AI神を信仰するようになる。

 すでにAI教団はあるのかも知れない。新興宗教がAI で教えを受けている可能性は無いとは言えない。人生相談など人間にお願いするよりはよほど良い判断をしてくれそうだ。人間は自分が作った脳を代用する機械に飲み込まれて行く可能性が出てきた。

 人間の発明した機械を、人間が人間の幸せのために利用できるかである。出来ないのが今までの人間。夢のようなエネルギーである原子力を発明した人類は、原子力を良い方向で使うことができないでいる。何度も人類を滅亡し、地球を破壊できるほどの大量の原子爆弾を所有し、互いに相手を威嚇していなければいられない状況に進んでしまった。

 いよいよ人間の脳を越える機械が出てきた。この機械を人間は人間の幸せのために使うことが出来るのかである。私は人類は大丈夫だと思っている。それは絵を描いていることでわかる。間違いさえしなければ、AIは人類にとってそれはそれは素晴らしい機械になるはずである。

 絵はAIがあらゆる技術を引き出し、あらゆる絵画を簡単に生み出すだろう。これは私は60年前絵を描いて生きようと決意したときに、想像していたとおりの世界だ。予測通りなのだが、思ったよりも早く来た。絵画は機械があらゆる物を再現するに違いないので、人間が描く絵画とは何かを60年前に考えた。


 ダビンチでもシルクロードの壁画でも、無限に寸分違いなく再現するだろうとその絵画と並べて、自分の絵はどのような物に見えるかと言うことが絵を描く者に問われている。こう考えて絵を描き始めた。中学生にしては生意気にちがいないが、普通に考えればそうなるいがいにないと思えた。

 このことはその後も言い続けてきたことだが、大多数の者が馬鹿にして取り合おうとしなかった。世間は、特に絵を描く人間達は愚かだとしか思えなかった。問題はそうした認識の元にどのように絵を描くのかである。それ替えそのものの意味よりも、絵を描くという行為に意味を見いだすべきだという、「私絵画」の発見だった。

 絵を描きはじめた頃、得度をした。私が生まれた家が、山梨県の藤垈と言うところの向昌院という曹洞宗のお寺であった。祖父が住職であった。味噌蔵の上の中二階で生まれたという話だった。味噌蔵と馬小屋なら似ているからキリスト再来かと思ったわけではない。

 曹洞宗の中学校である世田谷学園にかよっていたので、絵を描くと言うことと坐禅と言うことがどこか結びついた。道元禅師の只管打坐の精神と、絵を描くという行為をどこか関連付けて考えるようになっていた。その後茅野にある賴岳寺の三沢智雄老子に教わることになる。

 結局お寺に行き、絵を描くという行為が否定された。そしてお寺を離れた。自分が好きなことをやり尽くせという父の教えと、只管打坐で坐禅以外のことは一切否定するという、曹洞禅の在り方に打ちのめされた。僧侶の道に挫折したのが二十歳を過ぎた頃である。絵を描きたくて、曹洞宗を離れて、絵を描く禅の道を求めようと考えた。

 そして30代後半に自給自足からやり直さなくてはならないと思うようになり、山北の山の中で開墾生活を始めた。そこからは今の暮らしに一直線に来た。自給のための農作業をやることと絵を描くことを続けてきた。この暮らしで大満足である。一年でも長く継続したいと思っている。

 自分の来た道をAIの登場に合せて考えてみたのは、絵を描き始めたときから人間の描く絵は機械に越えられると言うことを考えて、今の絵の描き方に至ったからだ。この私の絵の描き方は、AI時代の絵画の意味の探求だったのだ。描かれる絵の意味よりも、描くという行為に絵を描く意味が移行すると言うことだ。

 人間の価値は行為そのものにある。行為の結果としての生産物の評価は自分の価値とは関係が無い。関係はあるのだが、生き方としては関係しない方が良い。ゴッホが最初のオランダ時代の絵で評価されていれば、ゴッホはいないだろう。ゴッホが自分の世界を発見できたのは、評価されなかったからだ。

 AIはある意味絶対神になるだろう。AI神を上手く利用して人間がそれぞれの人生を豊かに送るためには、自分の行為の意味を問い直すことだ。行為に充実と喜びがあるのであれば、それがその人の道であり、行為の価値を問うことはいらない。その行為に自分の生きる時間のすべてを注ぎ込めば良い。

 只管打坐である。それいがにはない純粋化された世界だ。その充実深さは絵が示しているはずである。未だいい加減であるために、絵もいい加減なわけだ。それでもすこしづつ進んでいるような気がしている。100歳まで続けさせて貰えれば、何とかなるかも知れないと思っている。

 絵は描きたくて仕方がないのだから、絵を描ける間は描いているだろう。他人の絵を見る眼で自分の絵を見て、否定しながら進んで行こうと思う。確信を出来たのは、予測通りAI絵画が登場したことによる。絵画作品に価値を置けば、それは意味が無い時代が実際に来たのだ。


 

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