同調圧力と忖度

   



 日本人は長い間、同じ場所で暮らすという生活を続けてきた。ご先祖様に見守られて、子孫のために生きる生き方である。人間の一生が自分のためだけに生きていると言うことではなかったのだ。自分が生きると言うことは一族の中で生きると言うことだった。

 人間の生き方が限定されていたと考えても良い。人間が個人として生きることが可能になったのは、日本が敗戦して、一度固定化された社会が崩壊したことで初めて起こった事だったのではないだろうか。この時に始めて多くの人が暮らす場所を変えて、都市へと流入を始めた。

 都市への流入は何も田中角栄が言うように、田舎にはキャバレーもパチンコ屋も無いからではなかった。地域や一族のしがらみから抜け出て、自由な暮らしがしたかったのだ。自分の意志に反して、同調しないでも良い社会で暮らしたかったのだ。それは忖度のいらない社会への憧れだったのだと思う。それが人間の本音ではないだろうか。

 確かに敗戦後の社会は一度ご破算になり、そうした自由な機運の社会は生まれるかにみえた。ところが、アベ政権下社会は先祖返りした。アベ政権がアベノミクスで経済をぐだぐだにしてしまった結果である。日本をだめにした責任者が国葬になったと言うおかしな事は、岸田政権の忖度の結果であろう。

 こんなひどいことに国民がもう自民党は嫌だと言わない訳だ。投票に行かなくなっている。政治に対する関心が薄らいだのだろう。50%を投票率がわった場合、選挙を無効にしたらどうだろうか。半分以上の国民がそっぽを向いていて、総選挙の意味がない。

 70年代が日本の転換期であった。戦後高度成長が続き、社会が希望に満ちていた時代が敗戦のご破算から25年で終わったわけだ。人口の増加と移動。それを受け入れることが出来た、大都市が作られ続けた。しがらみのない暮らしは日本人に活力を作り出した。

 頑張れば何とかなるという社会が目の前にあった。頑張る人間であれば、独力で大学まで進むことが出来た。何しろ学費が月1000円だった。ラーメン3杯である。入学金もなかった。1000円なら一日アルバイトすれば十分おつりが来た。寮に入れば、500円が寮費だった。食費は別であったのだが、誰かが食べないので、遅くなれば、それを食べて良いというのが暗黙の了解だった。

 何しろ、大学の中の旧馬小屋に泊まれる場所を作って暮らしていた。大学のあちこちに落ちているものを拾い集めて、レンガ作りの大きな軍隊の馬小屋の建物の中に、そこそこの部屋を作った。畳屋さんから廃棄の畳をもらってきて、ちゃんと寝られる部屋を作った。そこに暮らしていたのだから、ただで暮らしていたのだ。

 あれから50年は経つのだから、公表しても誰にも迷惑はかからないだろう。大学に無断でやったのではなく、正式に許可を得てやったことだ。学生課には学生課なりの事情があったのだが、それなりに信頼される関係を作り出していた為にできたことだ。

 城跡の大学の森の中には大木が何本も倒れていた。その大木の中から樹脂化した節の堅いところを掘り出して、木のアクセサリーを作って売っていた。樹脂を磨きだしてゆくと、素晴らしい深い色合いになる。今も制作途中のものが残っているが、今でも色艶が変わらず、なかなかのものだ。

 なんとなくデタラメに生きることに憧れていたのだろう。ヒッピー文化の影響のようなものだろう。スティーブ・ジョブズが 元ヒッピーで禅の影響を受けていたと言われている。物質主義や、中産階級的な無難な道徳観や、規律などへ 反抗である。

 アメリカのヒッピー文化が日本にも飛び火をして、そして日本では、70年代の大学闘争になった。それが日本の分かれ目だったのだと思う。そして弾圧されて何事もなかったように終わる。このさきの日本の行き先はおおよそみえた。そして、50年が経ち今の停滞した日本になった。

 その曖昧だがどこかにありそうな理想社会へ希望が断ち切られた、挫折感から次の生き方が始まる。金沢大学は街の中心から、山の中に移動させられる。学生が危ういものとして社会と切り離される。ヒッピーになるために新宿に出ていった金沢の友人がいた。結局はその人は自死した。

 同調圧力が必要な社会とは、自由な集合体ではない社会である。自由に出入りできて生きて行ける社会であれば、同調圧力はない。嫌ならどこかへ行ける。そこが良いのであれば、そこに来る。禅の道場には同調圧力はない。来たるものは拒まず去る者は追わず。

 江戸時代のような閉じた社会の中で、人間が自分自身のために生きることに専念するために作り出した仕組みなのだろう。それは宗教という枠組みを持つことで許されたに違いない。一休宗純禅師は瘋癲の僧として尊敬されて生きることが出来たのだ。

 現代は率先して忖度をして、自分だけを可愛がってもらおうという社会である。あの気持ち悪かった菅政権のやり方がまさに忖度社会である。いつも不愉快な表情がまさに、忖度を要求する権力者の表情である。権力者が何に腹を立てているかを、読み取らせるのだ。

 学術会議は忖度を要求され、未だに動きが取れないでいる。権力志向するものは上部の権力の力には良いワイはずだ。見返りを期待するものは忖度をする。ずる賢く生きる様が蔓延る社会。倫理が失われた拝金主義社会。結局は得をするために忖度する。

 現代の若い世代は学校時代に目立たないことを意識して生きていたはずだ。「周囲から浮いてしまう」「仲間外れにされる」「いじめのターゲットにされるかも」周囲に溶け込むことで、排除されないで生きる注意をする習性を知らぬ間に身につけたのではないか。

 忖度しない生き方。損をしても平気な生き方。他人のことを気にしないで生きる生き方。そのためには自給生活をするほかない。自給農民になる。食糧さえ確保すれば、権力の顔色を見る必要がなくなる。先ずはそこからではないだろうか。

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