Google検索 AI による概要

   



 最近Googleで分らないことを検索すると、AI による概要 と言うものが表れる。試験運用と言うことらしいが。なんとなくしっくりしない。正しい回答なのかどうか、頼りない気になる。例えば、野底岳の名前が急に出てこなくなって、「石垣島のとがった山の名前は?」とGoogle検索をした。

 「AI による概要」ということで、野底岳と教えてくれた。野底マーペーとも呼ばれるなど説明が続く。 黒島から強制移住させられたマーペーという娘が、恋人の住む黒島を眺めたいという思いから、野底岳山頂に登ったが、於茂登岳にさえぎられて黒島を見ることは叶わず、絶望を味わって野底岳の山頂の石と化したと 。黒島はのぼたん農園からならばわずかに見える。

 伝説まで記載されている。AIに人間が従うようになる第一歩のようで気分が少し悪い。教わって置いて文句を言うのが人間である。まあ、記憶の確認のために探す範囲であれば、これでいいのだろう。ウエッブに関わる以上、AIに慣れる以外無いのだろう。そのうち、三権のすべてがAIに参考意見を求めるようになるはずだ。

 その三権をGoogle検索すると。国家の権力を立法権、行政権、司法権の三つに分け、それぞれを異なる機関で運用することで、権力の集中を防ぎ、国民の権利と自由を保障する。と出てくる確かにその通りである。ただ最後の保障する。は少し違うだろう。保障を誰がしてくれるというのだろうか。自由は国民自らが確立する物だ。

 これを例えば「石垣島のひこばえ農法とは?」とGoogle検索で質問するとどんな回答があるのだろうか。

 石垣島ののぼたん農園では、稲を刈った後の株から出た芽を育てて利用する「ひこばえ農法」に取り組んでいます。ひこばえとは、刈り取った稲の切り株から茎を再生させて、もう一度稲穂を実らせることを指します。イネは多年生植物なので、収穫後に切られてもまだ生きていて、分げつをしていきます。


 ひこばえ農法は、省力的に栽培できるものの収量が低いという特徴があります。そのため、収穫後は播種から始める通常の栽培に戻すのが一般的でした。のぼたん農園では、石垣の気候に合った取り組みとしてひこばえ農法に取り組んでいます。

 と出てくる。私が書いたブログ記事から抜き出している。が文章はかなり変えられている。間違いもある。茎など出てくるはずがない。そんな間違いを書いた記憶は無い。出てくるのは分ゲツである。ほかに探してもたいした記事があるはずがない。収量が低いと決めつけている。私は栽培によって収量は上がると考えている。

 様々な回答を組み合わせているようだ。他からの引用と混ぜて作られていると言うことになる。のぼたん農園の名前を出されて、その上で間違った回答が書かれているのは心外だ。私が間違って書けば、間違った回答が正しいかのように、回答されることにもなるのかも知れない。この辺りが現在のAIの限界。

 もう一つやってみる。石垣島のあかうきくさ農法とグーグル検索したらどう出てくるだろうか。

 石垣島では、亜熱帯地域の特性を活かして、さとうきびや米、野菜、果樹などのさまざまな農業が展開されています。石垣島で農業を行う上で、台風や強い陽射しなどの自然が農場の恵みとして役立っています。石垣島で農業を行う上で、台風や強い陽射しなどの自然が農場の恵みとして役立っています。

 まるで見当違いの回答である。見当違いであれば問題は無い。まだまだだと笑って済ませば良い。ある意味AIを騙すことは簡単だということだ。誰かがGoogle検索をするだろう事があるときに、それに沿った嘘を書き込む。例えば「移民はペットを食べている。」というようなデマを書き込んでおくと、AIはそのデマをまことしやかに回答してしまう。

 問題はトランプ元大統領のような人物が、期待どおりのネタを手に入れたときだ。AIは一気に間違った情報の拡散が出来ることになる。確かにAI情報には問題がある。AIの回答を鵜呑みにしてしまうような社会になれば、とんでもない差別が起こるようになる。

 すでに間違いが広まり始めているのかも知れない。人間であれば、当然間違っている可能性があるという前提で、個人の見解として読む。所がAIの作った文章の成否の判断が難しい。これから精度が上がって行くのだろうが、人間よりは正しくなるのは間違いが無いが、限界はある。

 AIが創作した小説を楽しめるところまで行くだろうか。ここが肝心なところだ。無理だと考えている。小説を創作するという喜びは又別のことになる。楽しんで自分を出し尽くしたものが読んで面白いのだ。もちろん、印税で暮らそうと考えて創作するだけなら問題は無いが、良い小説を書きたいという意欲は、又別のことだ。

 AIが作り出す絵画は、私の考える絵画とはかなり違うものになる。藝術としての絵画とは言えない。AIが登場した次の時代は、絵を描くという行為に藝術の意味が重視される。いつも主張している「私絵画」である。自分の存在を創作にかける充実が、芸術としての行為になる。

 この違いこそ、人間の生きるという意味になる。人間が一日を精一杯に生きるという事に生きる醍醐味がある。有意義な物が作れると言う結果は又別のことになる。つまり結果を求めない。その生きる行為の充実に意味を見いだす。只管打坐である。

 絵画はその生きる充実にかける証のような物だ。人間の行為の痕跡が絵画にあればそれでいい。修行の度合いを他と競べたところで無意味である。自分という物を極め、磨くという意味で、絵を描くという行為がある。こうしたことはどこまでAIが進歩したところで関係が無い。

Related Images:

おすすめ記事

 - Peace Cafe