色彩には、3つの見方がある。

   


 私が絵を描く時に、色彩は最も大切なものになる。絵には構成とか、形とか、線だとか、多分無数に重要なものがあるが、色に一番惹かれている。素描とか、水墨画とか、色のないものは絵だとは思えない。色がないと物足りなくて仕方がない。素描とか、書とか言うものも好きではある。しかしそれは絵画とはかなり違うものだと感じている。

 色彩のことは何度も書いているような気がするが、今回水彩人の会場にいて、改めて感じたことなので、また書いてみようと思う。色彩に対する見方は3つに分けられると思う。まず、第一に固有色と言うことになる。もの自体に色が備わっているという、人間の感性に基づく当たり前の考え方だ。人間の感じているそのものなので、絵は固有色で考えられてきたのだろう。

 第2に、光の中に色が含まれていて、反射しない吸収される色と反射して、はね返って来るために見る者の眼に到達する光になり、色になる光がある。それがそのものの色のように見える。ある意味19世紀に始まる科学的な色の考え方である。スラーに代表される点描派の登場。

 そして、第3には主観的な色である。具体的に考えれば、絵の具の色である。色を独立した物と考えて、絵画は再現する物ではなく、画面という独立した世界に、絵の具という色で、画面に世界を構築するという考え方である。私はこの第3の考え方で絵を描いているようだ。

 固有色という考え方は色は、色は反射であるという考え方に対する、反作用から改めて考えられてきた。固有色と存在の意味というような哲学的な色の規定がおこな割れたような気がする。存在するもの自体が、色彩を伴い、色には存在を表現している要素があるという考え方。

 光である色彩は実態がない。固有食という考え方には、実感に始まる哲学的とでも言うような、色に対する考え方が含まれている。「ものがある」と言うことを把握するための、考え方ともいえる。ものが確かにそこにある。ということが固有色の考え方なのだろう。

 ものは分子レベルまで細分化すれば、空間も物も連なる同じ性質の物になる。その切れ目はない連なりに存在はある。それは自己存在も同様に何も空間と変わらないようなものだということになる。それに対して、生活実感として、ものと自分とは連ならない。

 絵で言えばデューラーのような絵ではないだろうか。物がそこにあると言うことを、絵において把握するというような迫り方である。触って物があると言うことが確認できる。確かに物という物を確認することで、それを見ている自分の確認が行えるという考え方なのではないだろうか。

 それに対して、光の反射で物を見るという考えは、自分という物も、世界というものの間には、切れ目がないという考えが根底にある。すべてが特別ではなく、等質であるという哲学。絵で言えばスーラーのような絵だと思う。空も人も等質に描かれる。モネなどもそうだといえるのだろう。水も睡蓮も、空も光も、等質に調和を求める。

 そして、私が考えている絵の具の色である。物と色を連動して考えない。絵の画面の上の色。あくまで自分の世界を、画面上の色の調和によって、画面で作り上げようという考え方である。絵は現実の反映ではなく、あくまで画面の上で、作り上げる世界だ。

 色は自分の世界を表すための材料になる。固有色でも、光の反射でもない、絵の具の色という素材の組み合わせで、画面の上に、自分の世界を再構成している。目で見ている世界というものはその最大の参考であるが、目で見ているものと絵の世界は別物である。

 多分絵で言えば、マチスの考え方なのではないだろうか。マチスはアフリカで影のない世界を見て、そのことに気づく。絵は画面上に新たな世界を作ることだと考える。色は自分の世界を画面に表現する材料である。色の大きさ形の組み合わせにより、新たな絵という世界が構成されると言うことになる。

 絵の具という段階では意味を伴わないものが、その組み合わせで意味を持ち始める。マチスの絵は実はいくつかの思想で作られていて、一筋縄では考えられないのだが、特に切り紙の作品にその色彩に対する考え方が集約されているように見える。どこの誰でも可能な絵画の実現。

 技術の不要な絵画世界。考え方だけが前面に表れるように作られている。特に最後の作品エスカルゴには強くそれを感じさせる。子供でも出来る絵画。特別な技術はなくても、絵画作品が可能というマチスの世界観。しかし、そう言いながらもマチス以外には不可能な絵画。

 私は若いころに、マチスの到達したところから絵を始めようとした。ところがそのことが、ありがたい簡単なことだと思い取り組んだ。ところが、技術を殺した、恐ろしい技術がなければ描けない世界だった。できる限り誰でも出来る方法でということが、どれほど難しいことだったのかというのが、20歳から40歳ぐらいの絵を描く苦しみであった。

 それでも、結局は立ち戻るところは絵の具の色で描きたいということになる。できる限り素朴に、技術を伴わない絵を描きたいという気持ちは変わらず持ち続けている。日々使っている、普通の言葉を連ねることで詩が生まれることのように、単純に色を関連させることで、自分の世界が現れることを願っている。 

 ところが実際の所、自分が感覚的に惹かれているのは、モネであり、ボナールである。色彩の画家である。世界の色の美しさを画面の上に再現してゆく。色の魔術師と言われるが、これほど美しい色の世界は見たことがない。ボナールの絵によって、モネの絵によって世界の美しさを教えられたような物だ。

 私の記憶の中にある色彩の美しさは、絵から学んだものなのかもしれない。その色彩の世界の陶酔のようなものに、酔いたいがために絵を描くのかもしれない。画面の上の色の魔術をまねようとしているのかもしれない。もちろん、その色の魔術は画面の上でしか出来ないことだ。

 画面の上で、絵の具の色の組み合わせによって、自分の色の調和を求めている。その調和が、より深い哲学的な世界観を持つものにしなければ、自分色の魔術にはならないと考えている。私自身が魔術にかかるためには、その色の世界が、観念に裏付けられていなければならない。

 その深い色調があるのは色彩は、水彩画の色彩なのだ。油彩画は汚くてダメだ。日本画の不透明感も私には物足りない。水彩画の保つ、限りない透明感こそが、深い思想哲学を表せる色彩の世界なのではないかと考えている。つまり、色彩のある水墨画のようなものだ。

 まだまだ遠い道だとは思う。しかし、行き先はおぼろげながら見えてきている。方角が定まれば、やることは決まってくる。今度は4月の水彩人春期展が目標になる。大いに頑張ろうと思う。水彩人展を通して、気持ちが統一され、方向が定まってくる。
 

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